小島信夫の感想

わかりにくく立体的な文章は、現実の道に喩えられる。ある道を行くときに、その道中に存在する風物は、現実世界に、(それが意味するところは曖昧だが)全的にそこにある。しかし、そこを実際に歩いていく時には、その道は特定の時間に、特定の視座から、特定の気分によって眺められている。つまり、行きにみている道と、帰りにみている道とは、同じ道なのだが、全く違う道でもある。一度目にそこを通るよりも、二度目に通ったときのほうが、その道はよく分かる。しかし、本当は一度目のときの方がよく分かっている場合もある。なぜなら、二度目三度目には僕たちはそれに慣れてしまい、はじめは何が見えていなかったのか、ということも分からなくなるからだ。現実とは一度目には決して全貌が分からないものであり、逆に、二度目三度目には見失われてしまうものである。こういうことが現実的なのだろう。だから、あまりにも説明的にみせてしまう文章には、その点の錯誤がある。それは後からの反省によって、本当は見通しの悪い世界を、俯瞰可能な平面へと置き直してしまう。そのように語れば、現実に接するときの人間の手触りをないものにしてしまうだろう。これは思考についても同様で、しかも比喩としてそうなのではなく、本当にそういうものなのだ。見えてしまっていることの錯誤に気づき、あえて見通しを失うことの訓練を積む。そういう文章修行があるのかも知れない。