瞑想の後

 

 部屋の中は真っ暗だった。机の上の窓の先に大きな月がみえた。とても大きな、黄色い、白い月だった。

 

 膝より背の低い小さな檻の中で、内側から格子を掴んで体を揺すっている何かがいた。猿だと思った。天板と暗さのせいで、中は見られなかった。

 

 非常に広い暗闇の中に遠く、小さな丸い穴が穿たれたように誰かが覗いていた。助けようとするように縄の梯子を垂らしていた。あまりにも遠いので届くはずがなかった。やがて水面に浮かんだ泡粒が風に吹かれるようにして、穴もその人も流れていった。

 

 ノートに書かれたたくさんの文字を消しゴムで消した。カスをごっそり机の上に払った。ノートはでこぼこしていた。教室は夕暮れだった。足りない陽射しの中で、紙の表面を眺めた。

 

 薬缶で湯の沸く音。

ホテル

 

 私はNと、少し古いホテルに泊っていた。私たちは隣り合うベッドで眠っていた。夜中に目が覚めた。窓から、背の高い棕櫚の木が投げる大きな影が、窓枠に区切られた月明かりの中を、私のシーツの上へ手を揺り動かすようにしていた。強風が吹いているのだろうと思った。密閉された窓の隙間からは、細い風の音しか聞こえなかったが。

 私は眠れず、廊下へ出た。廊下の明かりは低く落ちていた。カーペットは赤く、歩いていくと私は段々、道に沈み込んでいくように感じた。

 私はエレベーターホールにあるソファに、意味もなく腰かけた。眠気がやってくるかもしれないと思った。そこには自販機があった。2台のエレベーターの間に、植物の絵がかけてあった。その絵は今ははっきり見えない。しかし、部屋へ上がるときに垣間見たその絵の記憶が、私に絵の内容を理解させる。

 立ち上がると、廊下をさらに奥へ行った。つき当たりは、右側へ曲がっていく螺旋状の階段になっていた。私がそこを降りていくと、さらに周囲が暗くなっていくように感じた。実際、下の階はもっと暗かった。

 今、私の正面はゲームコーナーになっていた。UFOキャッチャーがあり、スロットマシンがあった。そこを進んでいくと、男女の浴場があった。今は電源を切られているが、何か小さな明かりがいくつも光っていて、あるものは白く、あるものは黄緑色に、明滅していた。

イルカショー

『イルカショー』

 

 迷路のような暗い狭い道を彷徨っていた。私は目的を持っていなかった。どこかへ出たいとも、何かに間に合いたいとも思っていなかった。ただ道があるまま、先へ先へ進んだ。非常に狭い通路があり、懐かしいような、淡い光に照らされた区画があった。壁の途切れた合間で、下から青く照らされて闇に浮かび上がる、展示された仏像のようなものを見た。

 私はやがて細い短い階段を昇ると、風の当たる場所へ出た。そこは月明かりに輝く大きなプールを囲む、ひと気のない客席だった。そこで日中はイルカショーをするのだ。私は誰もいない客席に腰を下ろした。そして脳裏に、飛び上がるイルカを想像した。

 

 水飛沫を上げて、宙に弧を描くイルカ。

 なめらかな肌が陽射しに輝くイルカ。

 

 私は腰掛けた席の左手側を眺めた。がらんとした客席。奥へ行くに従って段々となり、ゆるやかにカーブしていた。遠くに緑の非常灯があった。闇がただ濃かった。

 

苦しい夢

水面に何かが揺れている。大きな波が走り、板状のそれは斜めに落ち、そして反対の角度へ揺り戻して、ほとんど同じ場所へ戻る。

 

 

夜中、激しい憂鬱で目が覚め、眠っていられないので、ベランダへ出た。風が涼しい。下の駐車場の明かりが向かいの建物を白く浮かび上がらせていた。私は頭が働かなかった。その薄ぼんやりした景色が半分夢のように思えた。しばらくそこにそうして立っていた。

ふと気づくと、誰か男が電話をしている声が聞こえた。私の立っているところから、その姿は見えなかった。男の低い声は途切れ途切れで、内容を聞き取ることができなかった。何か仕事の話をしているようではある。でも、こんな時間に? 私はそれを聞くともなしに聞いていた。

いつの間にか、その声の主はいなくなって、辺りは静かになった。

 

 

 闇の中に、手があった。それは左手で、はじめ、甲の方を上にして這っていた。やがて向きを反転させて、指を握り込んだ。

 力のない手だと思った。力が抜けていくようなのだ。平均的な男の手で、形の上で弱々しいところがあるのではない。むしろ模範的な手、手の観念として正しい手のようだった。しかし、その持ち主のことを想像させられた。その手は何かを掴むことができないように思った。力がなく、砂のように、物事がすり抜けてしまう手だ。

 

 

ねえ、Nさん、待たせたね。ずいぶんご無沙汰してしまいましたね。Nさん、ずっと疎遠にしてたこと、恨んでるの。

 

馬鹿野郎、そんなわけないじゃないか。

 

ここ、すごい店ですね。いままでの中でも、また輪をかけて変わった店だ。

 

いままでだって。もう10年も会ってないのにさ。

 

怒ってる?

 

怒っちゃないさ。たまたま機会がなかったんだろう?

 

元気にしてました?

 

色々あったさ。長い時間だもの。

 

しかし、ここは何ですね。真っ赤な店だ。こんな趣向の店があるんですか。テーブルのカクテルだけ真っ青だな。こりゃ綺麗だけど、どうやるんだろう?

 

まるで手品だろう?

 

ええ。こんなものがあるなんて、聞いたことないな。話題になりそうなものだけど。

 

ここは地獄さ。

 

 

 

 

 

私が窓辺のソファで一人、横になっているとき、急に雨が降り出した。窓から入ってくる、さーっという雨音で、私は雨に気づいた。窓を網戸にして開けてあり、やがてベランダから微かに跳ね返ってくるような水飛沫を、掌の上に感じた。肘掛けに頭をもたせかけたまま、空を見上げた。雨がただ降っている。

 

 光の糸。縦横に張り巡らされた。水がしたたる。きれいだと思う。私は自転車を漕いでいた。夕闇が深くなって、私は空の下でいなくなった。そして、ある舞台の前の座席に座っていた。舞台に照明が当たる。耳に微かに音楽が聞こえる。ガラスの大きな窓が倒れてきて、激しい音を立て、粉々に割れた。それはコンビニの中だった。私は歩いた。夜の道だった。客引きの男が私に近づきかけた。次にはタクシーの中にいた。飲み屋で知り合ったニューハーフの女性がいた。我々は話すことがなくなって、気まずい沈黙の時間を過ごした。道は下降し、ある道路に潜り込み、短いトンネルをくぐると上昇し、昼になった。私は上司としばらく電話をしていた。その後、違う人物に関連する要件で電話をかけた。家につくと非常に疲れていたので、布団に横になってじっとしながら、読みかけの本を繰った。「くそったれ。どこに行っても・・・」気がつくと、夢をみた。夢の中では何かが進行していた。何かが進行しているという焦りがあった。砂がだんだん下へ向けて流れ落ちていくような感覚だった。砂が足りなくなるにつれて、身体中の力が抜けていくように感じた。その時、私はAと向き合っていた。いつになく私が取り乱しているのがAにはわからなかった。私はこんな時にも自分は平静にみえるらしい、と思った。ただ後から彼女が私の動揺を読み取っていたのだと、言うかもしれないと思った。外の光の中で影が濃くなっていくように感じた。Aは私に何かを話している。それは花の話だった。花? 花のイメージが膨らんでいった。早送りでキノコが大きくなるのを見るように。一群の花畑は広がり、風に靡いていた。私たちはいつも行く店でコーヒーを飲んでいた。それからまたタクシーに乗った。いくつもの影が窓から我々の上を通り過ぎた。そしてある家の門の前についた。玄関先の段々を降りてきた女性から、私たちは小さい男の子を預かった。そして、その子の手を取ろうとすると、滑り落ちるように目が覚めた。まだ夜の八時だった。外に出て歩いていくとラーメン屋の前に人が何人も並んでいた。その最後尾に加わると、すぐに後ろに他の人が立った。「何を食べようかな」と女性が言った。「何を食べようかなって、ここにはラーメンしかないでしょう」ともう一人が言った。私にはなぜか卑小な、小さな人間の像が浮かんだ。「それはわかってるけど、何のラーメンを食べようかってことだよ」と女の方が言った。私は急に気分が悪くなってきた。胃の底が重くなるようだ。そして、大雨の日に、坂を流れていく雨水がマンホールに流水の膜を作っている様子がみえた。私は傘をさして雨の中に立っていた。

「僕がこれまでの人生で経験してきたことと、違う経験を君はしてきたわけで、例えば僕は文学とか、そういうものについては何も知らないしさ。そんな違う経験が活きる時は必ずあると思う」

そういうものですか、と私は言った。仕事の世話をしてもらっておいて何だが、この人は私と同い年なのに、偉そうなことを言うな、と思った。と言っても、私は腹を立てていたわけではなく、彼の気にいるように、感心した素振りをあえてみせた。

「いや、これはすごいな。勉強になりましたよ」

近道

 近道は禁じられていたのだけど、その頃は近道を探すことが好きだった。回り道を繰り返しても、道のりは短くなったと感じていた。

 三人で歩いているとき、道で呼び止められ、庭の屋根の下で緑色の宝石を見た。女性は皺の寄った掌の上で、それを差し出してみせた。

 好きな子の名前を叫べ、とその中の一人が言った。俺は〇〇、ともう一人が知らない名前を答えた。人生には何があるか分からないから言えない、と子供の私は言った。胃の底が痛くなった。

 あまりにも道を外れると、自分がどこを歩いているのか分からなくなった。そして、一人で細長い道をいつまでも歩いた。

 結局は家に帰ることができた。空に見慣れた病院の頭が現れて、それを目印にすることができたのかもしれない。