水面に何かが揺れている。大きな波が走り、板状のそれは斜めに落ち、そして反対の角度へ揺り戻して、ほとんど同じ場所へ戻る。
夜中、激しい憂鬱で目が覚め、眠っていられないので、ベランダへ出た。風が涼しい。下の駐車場の明かりが向かいの建物を白く浮かび上がらせていた。私は頭が働かなかった。その薄ぼんやりした景色が半分夢のように思えた。しばらくそこにそうして立っていた。
ふと気づくと、誰か男が電話をしている声が聞こえた。私の立っているところから、その姿は見えなかった。男の低い声は途切れ途切れで、内容を聞き取ることができなかった。何か仕事の話をしているようではある。でも、こんな時間に? 私はそれを聞くともなしに聞いていた。
いつの間にか、その声の主はいなくなって、辺りは静かになった。
闇の中に、手があった。それは左手で、はじめ、甲の方を上にして這っていた。やがて向きを反転させて、指を握り込んだ。
力のない手だと思った。力が抜けていくようなのだ。平均的な男の手で、形の上で弱々しいところがあるのではない。むしろ模範的な手、手の観念として正しい手のようだった。しかし、その持ち主のことを想像させられた。その手は何かを掴むことができないように思った。力がなく、砂のように、物事がすり抜けてしまう手だ。
ねえ、Nさん、待たせたね。ずいぶんご無沙汰してしまいましたね。Nさん、ずっと疎遠にしてたこと、恨んでるの。
馬鹿野郎、そんなわけないじゃないか。
ここ、すごい店ですね。いままでの中でも、また輪をかけて変わった店だ。
いままでだって。もう10年も会ってないのにさ。
怒ってる?
怒っちゃないさ。たまたま機会がなかったんだろう?
元気にしてました?
色々あったさ。長い時間だもの。
しかし、ここは何ですね。真っ赤な店だ。こんな趣向の店があるんですか。テーブルのカクテルだけ真っ青だな。こりゃ綺麗だけど、どうやるんだろう?
まるで手品だろう?
ええ。こんなものがあるなんて、聞いたことないな。話題になりそうなものだけど。
ここは地獄さ。
私が窓辺のソファで一人、横になっているとき、急に雨が降り出した。窓から入ってくる、さーっという雨音で、私は雨に気づいた。窓を網戸にして開けてあり、やがてベランダから微かに跳ね返ってくるような水飛沫を、掌の上に感じた。肘掛けに頭をもたせかけたまま、空を見上げた。雨がただ降っている。