小説の思考

詩の言葉と小説の言葉はどのように違うか。一言、真実の言葉を言い表しうるのが詩の言葉とすると、小説はどの一文でもそれ単体で何かを言い当てるとは言い難い。何を語ってもどこか語られるべきことの根本とは遠く、かと言って全く外れているわけではない。そのように迂回する道というのか、迷っている間に通過する回路というのか、そうしたものの多層構造から作られてくるのが、散文的な小説の文章の特徴ではないか、と思われる。

そうした意味で、僕自身が語りたいのもやはり小説の言葉だ。あらゆるテーマは浮遊し、投げ出され、as it isの状態にある。それぞれのテーマは厳密にそれが何であるか定義されることはないし、しかし、そうした茫洋とした輪郭を持ちながらも、語られる事柄はそれ単体として決定的な観念なのでもない。それだけでは足りず、例えばいくつかの目的地があって、それぞれを経由してはじめて何らかの意味をなす旅のようなこと。永遠に割り切れず、すっきりとはしないが、それでも絶えず何かを考えている、というようなこと。またそのように永遠に解決しない人間像で自分自身があること、またそうありたいと望んでいること。こうした複数の層が照射する時間断面の中から、何らかのそれ以外では捉え難い真実が描き出される。それは万華鏡のように見る人の視点と時間によって、その像を変化させるものになるだろう。staticなものでありつつ、千変万化する。そうしたものとして、人は世の中を実際に生きているのだということ。

 

これまで自分が書いてきたもの、上手くいかなかったことの根本原因は、書こうとし過ぎ、また書くまいとし過ぎたことにあるのかもしれないと思う。散文とは上記のようなものであるから、全ての文章・思考は、それ自体の試みにおいては失敗している。それそのものとして意味をなすのではなく、投げ出されてあること、思考され続けること、また別の展開へと流れ込み、息づき続けることに意味があり、また生命を与えられるとすれば、そのような予感によってそうなるはずのものだ。間違うこと、歯切れの悪いこと、何も言い得てはいないこと、これを許容しつつ、常に前へと思考を進めていく、ということに重要な点がある。一つ一つの思考はそれでも、真剣なものでなくてはならない。その思考にどこか斜なところがあり、有限なつまらない知性の中でも突き詰めるところを持とうとしないのであれば、その次の展開というのは生じ得ないだろう。これは喩えていうなら、ドストエフスキーの小説においては、あらゆる人物が万感の共感を込めて書かれている、ということに近い。人物同士の思考がどのように隔たり、相矛盾し合うものだったとしても、その語るところを聞く間には、やはりその人の思考の世界に大なり小なり心を持っていかれてしまう。そうでなければ、もし仮に一人の人物にしか人物を認めないのであれば、小説の経験としては成立しない。一方、一人の語りの中にいる時には、一人の有限性の中にいると言わざるを得ない。ある人物から出、異なる人物のところに行く。ある場所を離れ、また違う場所へ行く。そこではそこで生じる出来事、生まれてくる新たな観念がある。それはまた過去の道すじとは独立したもので、必ずしも何らかの因果に縛られたものではない。しかし、こうした道程には非常に強力な意味があり、それ自体のあり様を別にしては語り得ないものだ。思考もまた、そんなものとしてあり得るのではないか、ということ。だから、時に、ある店に偶々入って、それからそのことをすっかり忘れているというように、ある種いい加減であることも許さなくてはならないと思う。その瞬間のことを、また別の仕方で、別の場所で考えとして展開させ続けていくのであれば。