日常生活にも、顕と密とがある。
普段話しているのは、すべて顕の話。
しかし、あらゆる実践には、そのバックグラウンドの意味としての、密が存在する。
これは、自分自身、然るべきときにしか語ることができない。
また、然るべき相手にしか話すことができない。
「ある時、非時間的な(しかしstaticであるのとも違う)抽象を(また究極の具体を)幻視する」
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密に傾き過ぎては、認識を進めることができない。
階梯としての顕は必要である。
また、すべての生は(その努力は)、顕の中で行われる。
だがそれらは同時に密でもある。
「白いページには無限の文字がある」
「頭上の何もない空間には華が溢れる」
「時間の内に非時間がある」
「無味の中に味がある」
「沈黙の中に音楽がある」
草葉を靡かせる風に美があるとして、
その美は“そこになくてもいい”のである。
その美は現実に何の影響も与えず、そのために何の痕跡も残すこともない。
しかし確かにそこにある、あったと言える。
もしそれがなければ、世界は完全に押し黙った無である。