夜、布団入っているとき、ほとんど夢を見るみたいに、猫たちのことを考えた。猫はこの家の下の住宅街の夜道を、眼を黄色く輝かせながら、4、5匹でまばらに、互い違いに歩き、何かを探しているようであり、何かから隠れようとしているみたいでもあった。

僕はベッドから起き上がって、実際にその光景を見ているかのように感じていたし、本当に立ち上がりたいほどだったのだけれど、眠りはもう十分に深く自分をとらえていたので、そうする前に眠ってしまった。そうして、星空を見たのだった。

 

部屋中に白い煙が漂っている。霧か雲のような感じだ。寒くはないけれど、少しひやっとして、明らかに湿っていて、喉や腕の肌が薄っすらと潤った。

何となく心地よく感じて、僕は床に座った。こうして自分の部屋の床に座ることはあまりなかった。白い霧が深くなって、あぐらをかいた足元まで見通せなくなっていた。そうなると部屋の広さもわからなくなり、自分がどこにいるかもわからなくなり、どこかだだっ広い高原にでもいるかのような気持ちになったし、急に夜になってしまったように思っていた。辺りは、明るくも暗くもなかった。

遠いのか近いのかもわからないような場所で、汽車がぼんやりした光を放って、警笛を鳴らしたように思ったり、空に花火が上がったりしたのではないか、と思ったりした。茶色い毛のゴールデンレトリバーがこっちに向かって歩いてくるようにも思えたし、あるいは古びたオートロックもない白い汚れた壁のアパートが目と鼻の先にきていて、各部屋の散らかった郵便受けの下に自分がいるようにも思った。

 

銃を撃ちまくるテレビアニメの映像

20年前からそこにあるバスケットゴール

人がいない湖

今は誰も触っていない、埃をかぶって劣化している黒のトランシーバー

茶色く変色した手紙

 

僕がしたいことは自分自身であることではない。そうではなくて、僕もまた施しがしたい。僕は生者でありながら死者であり、幸運だとも思う。僕は自分自身が持つ洞察を感じるし信じる。しかしそれが帰結するところを知らない。人はただ尋ねたがり、その理由を知らない。そして知ろうとするがために自分の生活を失いかねない。しかし失いかけて戻ってきた時には、より複雑な人間でありうる。より多くの空気の質感を知っていて、一つの音からより多くの色彩を導く仕方を知っている。しかしそれでも無為は無為であり、苦痛は苦痛であり、また人は再び行く道を決めなくてはならない。進む必要もないのに進むようなもので、苦痛はより大きい。よりヒントがなく、茫漠とした空間に投げ出されている。それは寄せては返す波が岩を打って、何度も何度も激しい高い波を立て、音を響かせ、それがどんな昼間も夜中もそうなのだけど、それに“意義”を見出すことと同じなのだと思える。それはモノクロの世界に目に見えない色彩と温度を与える音楽のようなもので、僕はそれがこわいと思っている。それはとても人間離れしたことで、普通の仕方ではやり遂げることができるわけがないのにも関わらず、常になされていることだからだ。