完全なリラックス

完全にすべてが

リラックスした状態では

本当に何もかもが

どうでもよく

重要で

意味に満ち

虚無で

輝かしい


出かけたいけど

出かけたくなく

死にたいけど

死にたくもない


そしてそれは

決してネガティブな意味ではない


完全な状態だ


その完全な

リラックス状態は

いつくるかもわからないが

くると長くつづき

すべてを受容するような気持ちになり

創造性は高まり

内的なイメージは結び合って

極めて主観的な

快楽をもたらす


そんなときに誰か人といたら

驚くほど楽しく

きっと薬でもやってるみたいに

笑い転げたり

仲良くなったりするだろう


でもそんな時間がくるのは

大抵ひとりでいるときだし

そんな気持ちのよさは

あまりわかってはもらえないけど


でもやっぱり

いい気分はいい気分だ

 人がまっさらな感情を抱いて、何かに挑もうとすること、何か別のことをしようとすることは、なぜ感動的なんだろう? つまらない、広い視点からみれば、何であれこの世の中で起こる出来事は無益で、虚無的でさえあるように思う。だったらなぜ人は、その中で何かをしようとし、そして絶えず何らかの感情を抱くのか。それは一体何のためなのか、一つの本能、抱かざるを得ない欲望のようなものなのか。でも、結局人は何かを感じざるを得ず、何かを証明せざるを得ず、そうして生きざるを得ないだろう。本当の悲しみは、虚無に向かって自分をひた走らせる感情にある。でもこれも、僕たちの本質から分かちがたいものだ。そのような意味では、人は自死を望むからこそ生きて、そして強い感情を持つこともできる。これは本当に解けない謎だと思う。永遠にこのプロセスの中にいると言ってもいい。どこまで行っても、すべては虚無であり、また虚無ではない。

僕はそこに出かけていかなければならない。シャワーを浴びて髭を剃り、髪を乾かして、服を身につける。鏡の中の自分の顔を見る。あまり気が進まないな、と思う。しかし、最低限、乗るべき電車の時間のことを思い出す。窓の外は曇っている。家には僕の他に誰もいない。

 

ファミレスで僕とHさんは長い時間あれこれと喋っていた。赤ワインをたくさん飲み、すごく酔って、楽しく、時間を忘れた。

暗い夜の帰り道で、僕はその情景をふと思い浮かべていた。踏切の中を、電車が大きな音を立てて通り過ぎていく。すごく寒くて、空が澄んで感じる。遠くの音が聞こえてくる。僕はなぜかいてもたってもいられなくて、早足に歩いていく。

風呂場にいる僕は湯船に身を横たえている。僕は強く目をつぶり、眠ってしまっているように動かない。窓からは昼時の白い光が射し入っている。僕は立ち上がり、立ったままシャワーを浴びる。僕はこういう体をしているのだな、と思う。体型はがっしりしているが、肩はやや丸まっている。

 

(それと同時に)

 

居間にいる僕は低いソファに肘をついて、ほとんど横に寝ている。風呂場に入っているのと同じ時間の日射しが射し込んでいる。下から見上げるようにしてテレビを見ているのだが、そこに映っているのは何なのかわからない。何か赤い、波を打つ内臓のようなものが、解像度の低い映像の向こうに流れているのかもしれない。音声も聞こえるが、漫才か何かのようにせわしなく、でも、それもモゴモゴとした音で、何を言っているかよくわからない。

 

僕が洗面所で体を拭い、廊下を踏む、きっ、という音が聞こえる。そしてそれから僕たちは出会うことになる。(それは死ぬことを意味すると思う)

病院

〔A君がいる病室に私は言って、ベッドの中にいる彼としばらく話す。A君のことは子供の頃から知っていたけど、高校生になって、こんな風に自分が考えていることをまとめて話すのを聞いたのは、初めてだった。〕

 

……もし一つの部屋に生まれて、永遠にそこから出ず、生まれてから死ぬまでが、その内部で完結するとしたらどうですか。僕は何となく、それでちゃんと生きたことになるだろうかって、思ったんです。でも、一方で考えるなら、例えば人間の一生だって、会う人や知る人の数は、かなりの量とはいえ限られているわけで……。そうなると、まあ、極端な言い方ですけど、例えばエベレストのてっぺんまで登ったところで、ある意味、一つの空間というか、一つの世界の中に、引きこもっているという感じがするじゃないですか。そんなわけはないって、言われるでしょうけど、でもふと何となく、そういうことを思って……。それが別に僕の意見というわけではないんです。僕も、それは違うんじゃないかな、とは思うんですけど、どこかにその考えが引っかかって、何となく気になるというか……。それでもたぶん、どこか遠くへ出かけてきて、それで帰ってきた人がその経験について色々話してくれるなら、僕はきっと世界が広がったように感じるかもしれないし、自分だって、どこかに出かけてみたいと思うようになるかもしれない。それでもなんか、一人の人間が、その一人の体の中にいて、限りのある人生の中で、限りのある場所にしか行くことができず、思考も感情もやっぱり大きな広がりはあれ、どこかで限られたものではあって、その内部で始終する……。もちろん、人としての感覚からすれば、それは十分に喜ばしいことでしょうし、人として感じることのできる全部を、そうやって感じることができると思うんです。まあ、それはもちろん理屈の上でってことですけど……。でもそうだとしたって、何かが足りない。あまりにも限られている。一体、ここにあるものは何だろうって、思いませんか。本当に、これがすべてなのだろうか。あるいは、もっと別なものがあるんでしょうか。もしかすると、CDやレコードみたいに裏面があるとか。ゲームをひと通りクリアすると、次のステージが現れるみたいに? でも、そうだとしてもそれとは違った仕方で、僕たちが僕たちとして理解できるあり方とは違っているでしょうね。そんなこと、ありふれた戯論だなって思うんですけど、そんなふうに考えるともなしに思っていると、こうして、窓から街を眺めたりしているときに、何となく懐かしいような、寂しいような、切ない気持ちになってくるんですよね。こういう気持ちってあんまり人に話したことがなかったけど、こうやって口に出して言ってみると、昔から思っていたかもしれない。それこそ、本当に小さいころから……。そういうことって、ないでしょうか。