『盗まれた自転車』

 中学二年生の夏の夜、少年は自転車を盗まれる。そのことを彼はまだ知らない。マンション四階の二段ベッドで弟たちと寝息を立てている。不良集団の一人が八の字に蛇行してそのママチャリを漕いで走る。星の輝く河川敷に放り出され、散々に手を尽くして痛めつけられる。朝どんな気持ちかお前聞きに行く役な。見つかった時には昼間のきらきら輝く水の中にハンドルの片側を突き立てて倒れていた。数週間の後に警察署で話を聞かされたとき、彼の母はそんな情景を思い浮かべる。リムがぐちゃぐちゃに曲がっていますね。サドルもない。持ち去られてます。でも、その他は修復不可能ということはありません。部品を替えればまだ使えますよ。乗って帰ることも引いて帰ることもできないから、車のバックシートを畳んで積み込んだ。家族でスキーへ行く日のように。少年は昼下がりの居間で母からそう聞かされる。今頃は小暮自転車店で直されているのだ。強く蹴られたり岩に叩きつけられたりして曲がっているからアルミニウムのボディには傷が残る。少年はすでに新しい自転車を買い与えられていた。小学生の乗るマウンテンバイクタイプのじゃなくて、そろそろママチャリにしたいって国ちゃんも言いはじめたからお下がりにあげちゃうわね。次男坊は高校を卒業し、大学へ進んでから数日間もその自転車に乗っていた。少し酔って新しい友だちの運転で家に帰った夜、自転車は駅の駐輪場に置きっぱなしだった。数日後に徒歩で捜しに行ってみると、海のように自転車の寄り集まった中で、自分のを見つけ出すことはもうできなくなっていた。数分ほど探した後、あれはやっぱり盗まれる運命の自転車だったじゃないか、と彼は思った。そして明日からは思う通り原付で大学へいくことにしようと。家族のうちの誰もその自転車がなくなったことには気づかなかった。四人の子どもたちが全員家を出て、残りの二人暮しのために家の品々を母が検分し始めた、それから十年後の春の雨の日までは。