すごくオタクっぽい黒尽くめの服をきた男たちのテーブルにつく。彼らは僕の知らないゲームやアニメの話を途切れなくしている。正面の男がB4大の紙を差し出して言う。「コードは読めますよね?」 紙には見たことのない記号を使った数式のようなものが書かれている。僕はその読み方を知らない。でもここにこうして座ることは、このゲームに参加することを意味していた。

じっと雨の音を聞いている。光が見える。青い枝葉に反射する。音だけが聞こえる。そこには時間がない。夢に時間がないのと同じように。

誰かがドアを開ける。長いトンネルにこだまするような声。雨の中の足音。戦車。疲れている。それはとても気持ちよく。まるで昨日や明日のことなど、何も考えないで済んだ時があったかのようだ。

そこは広い河川敷で、きっとバーベキューをしているのだ。ずっと水の音がしている。それは川の音かもしれない。雨が降っているのかもしれない。

 

 僕がそれを決める仕方は、一度にそう決めるのではなく、徐々に、積極的ではなく、むしろぐずぐずと崩れる砂の足場のように、あらゆる可能性を失うようにして、ようやく、これっぽっちのものしか残っていない、という仕方で、結局自分がはじめからそこに立っていた場所を見出す。

 

 ある種の開き直りが尊厳をもたらしてくれるということ。

 

 それもこれも、長い時間をかけた瞑想の過程なのだと思う。時間は黙ってくぐり抜けられる。僕は目をつぶり、とにかく正しくしっかりとした足どりで進めるかということにだけ、気をかけたい。それは思想や感情ではなくて、足腰や姿勢の問題になってくる。

 

 だからそれは道づれとお弁当を食べるような楽しさということ。

聖なる世界

内省はそれ自体病的な習慣だ。結局、無意識に、意図しないでも、それは生きているうちに死のことを考えるのと同じ。本質的にムダなことであり、少なくとも生きるための行為ではない。

 

僕はそれが一つのことの現れだと思う。経験にはいいものも悪いものもある。その一つ一つが重要であるのだけど、そのどれも重要ではない。またたった一つのことだけが重要なのだが、その一つのことだけが重要であるとは言えない。

 

それは一人でただ歩いている時の夜道。それは何もない海。それは夢の中に現れる誰もいない部屋。それはふとした瞬間に預言のように聴く言葉。それは旅先でのありふれた幸福。それは人生のありふれた悲しみや苦しみ。それは生きるための行為。それは暗闇の中の蝋燭。

 

あまりにも多くの記憶から現に今あなたは閉ざされていますね。こうしてここで生きている瞬間に、まるで夢の後と先が曖昧に溶けて消えるように、自分がどこにいるか、何をしているのかも分かっていないのだ。

 

生きるための考えでないものはすべて、長い目では死についての考えに、現実が現実であることへの批判や検討に、繫がっていく。

風船が朝になっても部屋の天井に浮かんでいる。

 

「目を当てて覗いてみましょう」

 

シャボン玉を吹いてぶくぶく泡が吹き出す。

 

耳鳴りがするから眠れない。

 

雪が降る日は部屋でテレビを見ている。

 

アニメのピンク色の小さい犬が暗闇の中でこっちへ駆けながら死んでしまった。

 

うるさいうるさいうるさいうるさい。

 

それは島だった。ホテルの大きな窓から見ていた。XXは自分の腕が切断される夢をみた。朝目覚めるとその夢は曖昧になった。

 

今は何年何月何日何曜日……。今は何年何月何日何曜日……

 

ピンク色の犬は暗闇の中でばらばらにほどけながらXXを追ってきた。知りもしない犬だったが生まれてからずっと連れ添った犬のように悲しかった。犬の映像はテレビの中にあり、XXはその背景の暗がりと一体になった。外では雪が降っていた。雪はこれから一晩中降って積もるのだった。表の通りでは足跡のない雪の面を街灯が照らしていた。別の時間ではその道を犬を連れて近所の男が散歩させていた。その近くの家の奥に入っていくと新しい木の神棚に気持ち悪い呪符みたいなものが貼られている。

 

シュールレアリスティックに描かれたメロン。

 

寝ていると深夜の同じ時間帯にいつも全力疾走していく男がいる。

その男は幻だ。

 

夢の中で死んだのに朝目が覚めると死んだことを忘れていく。

 

そのコーヒーを飲むな。…。