僕はそこに出かけていかなければならない。シャワーを浴びて髭を剃り、髪を乾かして、服を身につける。鏡の中の自分の顔を見る。あまり気が進まないな、と思う。しかし、最低限、乗るべき電車の時間のことを思い出す。窓の外は曇っている。家には僕の他に誰もいない。

 

ファミレスで僕とHさんは長い時間あれこれと喋っていた。赤ワインをたくさん飲み、すごく酔って、楽しく、時間を忘れた。

暗い夜の帰り道で、僕はその情景をふと思い浮かべていた。踏切の中を、電車が大きな音を立てて通り過ぎていく。すごく寒くて、空が澄んで感じる。遠くの音が聞こえてくる。僕はなぜかいてもたってもいられなくて、早足に歩いていく。

風呂場にいる僕は湯船に身を横たえている。僕は強く目をつぶり、眠ってしまっているように動かない。窓からは昼時の白い光が射し入っている。僕は立ち上がり、立ったままシャワーを浴びる。僕はこういう体をしているのだな、と思う。体型はがっしりしているが、肩はやや丸まっている。

 

(それと同時に)

 

居間にいる僕は低いソファに肘をついて、ほとんど横に寝ている。風呂場に入っているのと同じ時間の日射しが射し込んでいる。下から見上げるようにしてテレビを見ているのだが、そこに映っているのは何なのかわからない。何か赤い、波を打つ内臓のようなものが、解像度の低い映像の向こうに流れているのかもしれない。音声も聞こえるが、漫才か何かのようにせわしなく、でも、それもモゴモゴとした音で、何を言っているかよくわからない。

 

僕が洗面所で体を拭い、廊下を踏む、きっ、という音が聞こえる。そしてそれから僕たちは出会うことになる。(それは死ぬことを意味すると思う)

病院

〔A君がいる病室に私は言って、ベッドの中にいる彼としばらく話す。A君のことは子供の頃から知っていたけど、高校生になって、こんな風に自分が考えていることをまとめて話すのを聞いたのは、初めてだった。〕

 

……もし一つの部屋に生まれて、永遠にそこから出ず、生まれてから死ぬまでが、その内部で完結するとしたらどうですか。僕は何となく、それでちゃんと生きたことになるだろうかって、思ったんです。でも、一方で考えるなら、例えば人間の一生だって、会う人や知る人の数は、かなりの量とはいえ限られているわけで……。そうなると、まあ、極端な言い方ですけど、例えばエベレストのてっぺんまで登ったところで、ある意味、一つの空間というか、一つの世界の中に、引きこもっているという感じがするじゃないですか。そんなわけはないって、言われるでしょうけど、でもふと何となく、そういうことを思って……。それが別に僕の意見というわけではないんです。僕も、それは違うんじゃないかな、とは思うんですけど、どこかにその考えが引っかかって、何となく気になるというか……。それでもたぶん、どこか遠くへ出かけてきて、それで帰ってきた人がその経験について色々話してくれるなら、僕はきっと世界が広がったように感じるかもしれないし、自分だって、どこかに出かけてみたいと思うようになるかもしれない。それでもなんか、一人の人間が、その一人の体の中にいて、限りのある人生の中で、限りのある場所にしか行くことができず、思考も感情もやっぱり大きな広がりはあれ、どこかで限られたものではあって、その内部で始終する……。もちろん、人としての感覚からすれば、それは十分に喜ばしいことでしょうし、人として感じることのできる全部を、そうやって感じることができると思うんです。まあ、それはもちろん理屈の上でってことですけど……。でもそうだとしたって、何かが足りない。あまりにも限られている。一体、ここにあるものは何だろうって、思いませんか。本当に、これがすべてなのだろうか。あるいは、もっと別なものがあるんでしょうか。もしかすると、CDやレコードみたいに裏面があるとか。ゲームをひと通りクリアすると、次のステージが現れるみたいに? でも、そうだとしてもそれとは違った仕方で、僕たちが僕たちとして理解できるあり方とは違っているでしょうね。そんなこと、ありふれた戯論だなって思うんですけど、そんなふうに考えるともなしに思っていると、こうして、窓から街を眺めたりしているときに、何となく懐かしいような、寂しいような、切ない気持ちになってくるんですよね。こういう気持ちってあんまり人に話したことがなかったけど、こうやって口に出して言ってみると、昔から思っていたかもしれない。それこそ、本当に小さいころから……。そういうことって、ないでしょうか。

郵便受けみたいなとこからしわしわの手が出てきて、何かを求めるように虫みたいに動きまくっている。僕は、「昨日、でかい蛇が庭に出る夢をみた。懐中電灯で草むらのそいつを照らした」と書いてある紙を持っていて、それを丸めてその手に渡す。手は満足して帰って行った。

 

ジローくんはシマウマになってしまい、あまりにも取り返しがつかないので、朝からクラスで泣いている。

シマウマになったと言っても、形は人間のままなのだが、体にはサッカーのユニフォームのように縞がある。

それから彼はひとりぼっちで給食を食べるようになった。

それから彼はひとりぼっちで給食を食べるようになった。

 神様が知らない言葉で言う。xxxxxxxxxと。その声はぶつぶつとして聞きとれない。でも僕はそれが本当に懐かしくて、それが僕が本当にほしかったのものだとわかる。それを聞くまではそのことについて、まるで忘れていたし、知りもしなかったのだけれど、その不鮮明な言葉で呼びかけられたとき、まさにそれが僕が求めていたもののすべてだとわかる。それによってすべての謎が解けるのだと、そしてすべてが証明されるのだとわかる。それを僕はなんと呼ぶべきかわからない。暖かい雨のようであり、人通りのない夜の車道のようでもある。

 

  それは巨大なジャンボジェットのようなものだった。みんなが積み荷をそこへ持ってゆき、まるでノアの箱船と言ったところだ。一人一人に会うことができたわけではないが、僕がこれまで見知った人たちはみんな、ここにいたのだろうと思う。これから僕たちは二度と戻らない旅へと出かけていくのだが、少しも寂しさや不安などはなく、ただ未来への純粋にわくわくとした気持ちしかないのだった。こんなにも希望だけを感じたことなど、これまで生きてきた中で誰も経験したことがないような感情で、それゆえに非現実的であり、怖いくらいだった。でも、その怖さは不安とは違っていた。僕たちは救われたのだ、と思った。それがどういう意味なのかは、わからなかったが。これまでにあったすべてのことが今では素晴らしく思え、今、何一つこの世界に欠けたものはない。

虹彩

夢をみる。

世界像。

赤や青。

小さい人。

愛や絶望。

茶店

新聞。

拡大されたイメージ。

シンプルさ。

遠く離れてしまう。

決別。

雪。

雨。

ドア。

家屋の木の匂い。

懐かしい。

コーヒー。

コーヒーを飲む。

暖かい格好をした。

銃殺される映画。

猫を飼おう。