脈絡のない考え(1)

空で白い旗がぱたぱたはためく。

濁った空の下で僕は居心地が悪いなと思う。こうして午後に居心地が悪く感じて仕方ないことがある。それは体が服でその服が寸づまりだとかちくちくと毛羽立っているような感じだ。服だからどこへ行ってもどこまで行っても居心地は悪いままだ。

 

そんな気分があるから本当に風の吹き抜けるように快適なときは快適なものだ。秋の涼しいときの戸外のよさと言ったらなく、仮に車通りの多い喧騒に面した喫茶店のテラスにいても、カップの中のコーヒーに映る空をみつめることができる。その空は茶色くていかにも今が今だ、という感じがする。

 

まるで誰もいない教室のようだ。それはただの何もない場所なのだが、日中にはあらゆる場所にもまして人の気配が(というより人そのものが)満ち満ちているので、ごっそりとそれがなくなってしまったあとは不思議なほどだ。

たとえば引っ越すためにすっかり片づけてしまった部屋だってそうだろう。僕はもうここに戻ってくることはないと思う。しかしそのときに感じているこの気持ちは何度か感じたことのあるもので、そんなとき人は昔のことを思い出すだろうか?

 

しかしそうではなく、たとえばある晴れた日に朝、表のドアを開けて今日は晴れている日だとわかったとき、同じように不思議な気持ちになることはないか?

僕は今朝は夢を確かにみていたな、と急に思うような?

その夢のことを思い出せないのだけど、何かをみていたことははっきりわかるような?

 

それでたとえば四ツ谷まで電車に乗って行って、上から列車を見下ろすとき、いつもみている列車なのにその日は特別にそれに目をとめるし、また列車が下を走っていくときの音がとても大きく聞こえて、それが別にいい音というわけでもないのだけど、何かすっきりした感じを味わうとか?

 

あと、光がさしている普通のまっすぐな道の写真をとって、親しい人に送ってみたくなったり、また実際にそれを送ったりすることは? そしてその人もその写真をもらったことを喜んでくれたりすることも、やっぱりあるだろう。

 

そんなことを思う。