ある男が、
新幹線の中にいる。電車の中にいる。ラーメン屋にいる。舞台上にいる。ベッドの上にいる。本の中で夢中にいる。図書館にいる。布団の中にいる。月が出ている。
「ぶらぶらぶらーっと、てめえ、ぐちゃらぐちゃら喋ってんなオラー」
「静かにしろ」
「ははは」
「僕はここにいたこともあるし、あそこにいたこともある。実に、色んなところにいたことがあるんだ」
と、少年は音読する。まるで、意味が分からない、という顔で。
「お母さんが子供に、絵本を読んであげています」
そう。だから?
「月が空に昇って、雨が地上に降って、
そして、
恐竜たちの絶滅に思いを馳せた後、
海の奥、遠くに向けて、流れていきます」
「この店はいい。ビールの店だから、食事は適当かと思いきや、一品一品、妙に凝っていておいしいからね。そう。評価がいいのも頷ける。ここはこの街に人がきたら紹介したい。この、春巻に入ってる、ヤングコーンも、香り高くておいしいな。ああ、そう、これが五香粉か。五香粉って、ルーロー飯とかに入ってるやつね」
雀が庭先に二、三羽いて、お互いの方を向き合って目配せしながら、小さく跳ねたりまばたきしたりする。その小さい足や嘴までみえる。カーテンが引かれていて、鳥たちはそのレースの向こうにいる。それでも分かる。私はマッサージチェアに座っていて、気がつくと雀たちはいなくなっている。昼なのにこれだけ暗くなると、やがて雨が降るだろう、と思う。
「お金があれば幸せってわけでもないよ。彼女を作ろうかと思ってみたこともあるけど、人に合わせるのはやっぱりきつい。今は開き直ってひとりでも生きていけるようにしようと思ってるんだよね」
夜の水たまりに、看板の端が映り込む。人影が過ぎていく。足音がする。車の走行音がする。水たまりは濁った夜空を映している。コンビニの白い光の気配が、暗さのニュアンスの中にある。風が吹くとさざなみ立つ。夜更けまで水たまりはそこにある。
よく消える消しゴムで消しても、筆跡の溝が残っている。時には元の字が判読できないくらいに薄い跡だが、何かが書かれていた、ということは分かる。