説教くさいというのは、判断があるからだ。判断とは守るためにすることである。僕はもっとドライに行きたい。ほとんど虚無に近いほどドライに。現実性に対してノーガードで、それこそガラスの破片の上を転げまわるように、挑んでいきたい。愚かしい散文であり、無意味な散文であり、どこに至りつくか全くわからないのだが、妙に頭がスッとして冴えて、しかし見通せないほどぼんやりして、充実して虚無で、笑いと光に溢れ、非時間的である。