『仏像』

 深夜、その不思議な音に誘われるように僕は、三男坊の部屋へ入っていくと、光輝く仏像がそこに鎮座していた。背丈は膝ほどの高さだった。光は白く、青みがかっていて、神聖な感じがした。仏像の眼は金色の輝きを放っていて、僕は状況がよく分かっていなかったが、その前で手を合わせた。目を瞑り、寺や神社でよくするように、何かいいことが僕や周りの世界に起こりますように、とごくありきたりな願いを念じた。

 すると、そうして閉じた瞼の裏に、赤い火の玉が楕円を描くようにして旋回しているのが、段々はっきりと映ってきた。それは小さな人間であって、彼の背中に背負った薪のようなものが激しく燃えているので、それを脱ぐことができずに困惑して走り回っているのだった。僕はその男の影が、自分の左耳と右耳の間を通り抜けていくように感じていた。それはとても鋭く、耳が痛くなるほど甲高い音を聞いているときに受ける感覚と、よく似ていた。

 誰かが僕の足元にまとわりつくので、驚いて目を開けると、そこは燃えさかるアパートの前で、すでに消防隊が駆けつけて、野次馬の人だかりができていた。僕はそれがいつどこの光景か知っているように思った。それは僕が小学生の頃に、同級生の女の子のお兄ちゃんが亡くなってしまった火災の現場らしかった。僕は自分が今生きているよりも、ずっと過去の舞台にいることを知っていたので、そこにいて火を見ている人たちも、今アパートに生じている危機も、すべて現実のものではないと分かっていた。

 僕の足元にまとわりついたのは、母親になっていたSで、彼女は抱えて走ってきた赤ちゃんを地面に落とし、その子の頭はまるで中身が空洞の石膏みたいに衝撃で粉々に砕け散ると、真っ赤な血をアスファルトの上に巻き散らせた。その血の生々しい色の上に、夜に燃えさかる炎の光のかげが揺らめいているのを見た。

 アパートの正面玄関から、背の高いがっしりした体型の男が、まっすぐにこちらへ向かって歩いてくるところだった。その男の影は炎を背景にして真っ暗にみえた。同時に、何か呟くような声が聞こえていた。誰か僕のそばに立っている人がその言葉を言うのか、それとも僕の内心の無意識の呟きなのか、いずれにせよ、僕にはSがそれを言っているように思えていたが、彼女は僕の足元にいて何を話すこともできないでいる。

 次の瞬間に眼を開けると、僕は学生時代のSのワンルームのアパートにきていて、壁を背にしてこたつに入ったまま、少し眠っていたようだった。Sは同じ室内の台所でこちらに背を向けて洗い物をしていて、その向こうの窓からは昼すぎの光が入ってきていた。もういかなくちゃいけない時間になったな、と僕が今ふと思いついたように言うと、Sは何も言わなかった。僕は面倒なことをあれこれと話すのは嫌で、手早く準備をすると外へ出てしまった。

 そしてそこは僕にとっては見たこともない街だった。5階ほどの高さの廊下から、トンネルをくぐって電車が走っていくのが見え、その音が大きく聞こえた。

 ここはどこだろう、と僕は思う。そしてなぜここにいるんだろう、と思う。しかし記憶を辿れば僕は経緯を思い返すことなんて、すぐにできると分かっている。でも、よくそんなふうに思うことがある、と僕は思う。ここはどこだろう。なぜここにやってきたのだろう?