✳雪の日について

 

 実家はマンションで、三階から入って中に階段があって二階へ行けた。つまり実質は二階建ての家に住んでいるような感じだった。

 実家の街はそんなに雪は降らなかったが、東京よりは頻繁に雪が降っていたように思う。それでも年に数回くらいで、風の中に雪が舞い始めると僕は嬉しく思った。だいたい地上から高いところに家があって、東京のように周りに背の高い建物がぎっしりないので、ちろちろと雪が風にまざってあっちへ行ったりこっちへ行ったりするのがよくみえた。そんな日は大抵空が曇っていて寒かった。居間のソファに座って、頬杖をついて雪を見ていることもあった。

 例えばその日僕は一人で居間にいて、母はまだ家に帰ってきていない。多分買い物に出かけている。弟たちはどこにいるのかわからない。上の部屋でゲームでもしているのか、あるいは買い物に一緒に出かけたか、だ。

 僕はこういう時間に一人でいるのが好きだった。居間は横に長いので天井には電気が二つあり、一方だけの明かりをつけていた。その明かりもあえて暖色のあまり強くないものにしていて、だから部屋は本を読むのには少し暗いぐらいだった。

 こういう明かりの中にいるのが昔から好きだった。それは僕に、たとえば夕方の市民プールを思い出させる。家から車で十分ほど行ったところに、市営の温水プールがあって、その周囲はずっと田んぼが広がっていた。このプールには物心ついたときからいつも連れられてきていて、じいさんが元気だったときはじいさんともきたし、少し大きくなってからは友達と自転車できて帰りにわらび餅を食べたりしたし、また僕の弟たちも父に連れられてここにきて、夏の間スイミングスクールで覚えた泳ぎを見せたりする・・・。

 そのプールはガラス張りの建物のため、日中はほとんど室内の明かりを感じることがないほどで、外の田んぼの緑や空の広がりや、また絶え間なく自動車の走っているまっすぐな道路が眩しかった。例えば夕立のように雲が垂れ込めて暗くなると、随分薄暗く感じたもので、その時についているのは銀色の明かりで、そんな時間もなんとなく珍しくて面白く思っていた。

 そして夕暮れ時になると必ず照明がオレンジ色になるのだった。なぜあの色になるのかわからないが、この明かりになってしまうと、一気に夜らしくなるのだった。施設の周囲を巡っている景色も、夕方の暮れ泥んだ感じになっていった。元々、夕暮れとは何となく物悲しく、懐かしく、不安な気持ちにもなり、一方で例えば自分の家があり、夕飯を家族で食べたりすることに変に落ち着きを感じたりするものだけれど、こんなライトアップの中では、そんな気分が一層高まるのかもしれなかった。

 流水プールがあって、まだ身長のそれほど高くない僕は、水の底に足をつけてとぼとぼ歩いている。何かを目指して移動しているのではなく、強いていえば僕は自分の体を上がり下がりさせて、口を水面より高く持ち上げたり、反対にその下に沈めたりしていた。何を考えていたのか、と思う。何だか不思議に集中した気分で、水の音が流れつづける耳の中に、施設の丸い天井に反響する色々の声や、静かな音量で流される流行歌を聞いたりしていた。水面にはオレンジ色の照明が反射して揺れていて、そんなふうにしていると、いくらでも時間が過ぎてしまいそうだった。

 他にも例えばそんな明かりは、夜の高速道路のそれで、家族で旅行に出かけるなら朝早くに車を出したので、僕の家の車は道沿いに規則的に並んだオレンジ色の明かりの下を、どんどんくぐって進んでいくのだった。窓から角度をつけて流れ込む光は、例えば僕の手にぶつかって長い歪な影を車内に投げた。そしてその影は眠っている母親やチャイルドシートの弟の上をさっと通り抜け、そしてすぐに背後に後退していくのだった。それからまた新しい光がきて、同じ影が通り抜ける。僕の頭もそうで、頭の影も長く歪になり、そして流れていった。父は運転席にいて、きついミントのガムを噛んでいる。さっき弟がぐずったので、母は助手席から後ろへやってきたのだった。緑色の電飾の光る眠たげなパーキングエリアで、母は席を移動した・・・。

 

 これらの光はそれぞれ色が似ているというだけでなく、何となく気分の点で似ているところがあったのだと思う。それは眠たげな感じでもあり、世界との和解というか、家族の中にいるような心の安定した感覚があった。どうしても一人で自分のことを意識しているとき、僕は(きっと多くの人は)不安な気持ちに駆られるもので、そうした打ち解けた感覚のある時だけは、そうした不安から自由でいることができるのだろうと思う。またそんな自由な気持ちの中にいるときは、自分がそのような時間を過ごしているとほとんど自覚することができず、まるで猫かなにかのように無心でいるうちに時が過ぎ去っているということもよくあることだ。

 大体、雪が降るような日は部屋も底冷えして、こうして何か体の芯でぴりぴりと感じるような時に、上から階段を降りてきて誰もいない広い部屋へ出て、コーヒーを淹れたり、またオーブントースターでパンを温めて少し食べたりするような夕暮れの時間は、この時というのではなく何度も反復された。

 これは僕が少年時代に感じていたことそのものであって、今でも同じように感じることはある。でもそう感じるときはむしろデジャブのように感じるのであり、現在の感情としてそれを感じるのではなく、僕は過去に呼び戻されている。そして当時そんな風に感じていたその時も、また思い出のように自分の感覚を感じていたようにも思われる。それは不思議なことで、そんな時間と感情の背景に、窓の外でゆっくりと雪が降っている。

 

 雪が降り積もるということは驚くべきことで、これは壮大な隠喩のように感じる。多分僕がかなり幼かった頃、朝、僕は父と母にそっと起こされて、抱かれながらこの家の階段を下っていった。父も母ももう先に起きていて、テレビがついて休日の討論番組を映していたし、床には新聞が広げられていた。テーブルの上にはパンとフルーツが少し並んで、すでに食事を終えた皿が出たままになっていた。

 でもその時部屋はまだ誰も目覚めていない時間のように暗かった。父は口の前に人差し指を立て、僕によく見るように澄んだ目で言った。カーテンが開かれると、そこには一晩のうちに降り積もった雪があり、朝の太陽の下で白くきらきら輝いていた。

 僕は小さい足で窓辺に立ち、両手にカーテンの端をつかんでじっとそれを見ていた。

 そうした、朝の暗闇の中から突然、見慣れない雪の世界が現れる、という感覚は忘れることができない。僕は階段をくだってくる間、昨日の晩のことは忘れていたに違いない。「雪が積もるかな。積もるといいな」そんな話を降りつづく雪を見ながら父や母としていたりしたのだろう。でも、夜の間眠り、夢の中にいる間に、現実の世界では降り続けていた雪のことを忘れてしまい、曖昧に夢の中にいた。それでもぼんやりとした意識の中、階下に向かって運ばれているとき、何か漠然とした期待のようなものはあって、そうした短い時間だけの胚珠を抱えていることはそれ自体幸福で、雪を見た後もその幸福感は変わることがなかった。

 そんな雪みたいなものに何度も出会ってきた気がするし、また人は頻繁に出会っているのだと思うけれど、それが何なのかということを指し示すことは難しい。またそうしたものが生じた瞬間に幸福を自覚することも難しい。

 

 雪に関してはそうした記憶や印象が折り重なっていて、しかしそのほとんどは忘れてしまっているので意識には登ってこない。一七歳程度の僕は誰もいない夕方時の居間で椅子に腰かけ、コーヒーを飲みながら暗くなっていく雪のぱらついた窓の外をじっと眺めている。それまで参考書の類をずっとやっていて、ひと勉強終わった後でここに戻ってきた、そして頭の中はきっと空っぽだった。コーヒーの表面に部屋がうすく映るのを眺め、細くて白い湯気を目線で追った。

 その時は本当は僕は何者でもなく、時間と一つになって幸せだったと言えるかもしれない。やがてその窓の下の道をヘッドライトを光らせ、父も母も、あるいは弟たちも帰ってくるのだった。