別に芸術の話なんかじゃなくてもいい。どんなことでもいい。客先に向かう電車の中でぺちゃくちゃ喋るようなムダ話。喫茶店で特にあてもなくあれこれと話すこと。そういうのがすごく好きだ。色々話して考えて、そしてすぐに全部忘れてしまうようなこと。それでも色々と記憶が残ったりするようなこと。それが人生の隠喩のように感じている。

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移動中に話すことは特にいい。なぜか? 目的地に向かう間、人は暇しているから。それに、色々と新しいことが目に入って話が弾むからかもしれない。

電車に乗って、窓から昼間の光がさんさんと入ってきたりするのは最高だ。

そんな旅をするために旅をしたいような気持ちになる。

これもまた人生の隠喩。

✳︎ ちくまから出ている『武満徹 エッセイ選』を3分の1くらい読んだ。 後半にドッグイヤーがついていたが、全く読んだ印象がなかった。 でも、ガムランやグロート島のアボリジニの話はすごかった。2-3年前に僕が考えようとしていたテーマに近いものがある。 そういえばその頃は、アイヌの輪唱や神話、また古いブルースだとかに関心を持っていた。 また、ル・クレジオの『悪魔祓い』とかにすごく興味を惹かれていたのだった。 もう一方で、『ゴダールの映画史』を読み直している。 まだ前半だけど、表現と区別された感化(アンプレシオン)と言う概念について繰り返し口にしているのが面白い。 自分なりの受け止め方だが、感化というのはコミュニケーションに関わることだと思う。例えば映画館で映画を見るように、観客と作り手との関係が固定化されていて、すでに作られてしまった作品を見るしかないとき、そこにあるのは表現になる。 一方で、例えば作家が第1稿を書いて、それに編集者や友達が何かの指摘をしたりして、その原稿を直したりすることには、感化がある。というような考え方。 あまりロジカルな定義ができていないけど、例えば僕はギリシャ悲劇のようなものを想像する。あれは確か、聴衆も合唱団として組織されていて、劇の形成に参加する役割を担っている。 他にも、音楽全体、特にドラマーのしていることは、感化っぽいと思う。観客は音楽にノッて自分の身体を動かすことによって、感化され、感化している。 共創ってこととは、ちょっと違う。共創というと言葉のイメージだけど、やはり複数人の作り手によって、パッケージ化されたひと塊りのプロダクトを生み出す、という印象が拭えない。その場合、作り手と受け手との関係は固定化する。感化はどちらかと言えば、聴衆不在の宗教的儀式みたいな印象もある。集合的な祈りのような。 武満徹のエッセイでは、実際、バリで誰も見ていない影絵芝居をしている老人が出てくる。夜の闇の中で、照明も月明かりもなくやっているから、スクリーンはあるものの何も見えない。その話は結構通ずるものがある。 村上春樹の『職業としての小説家』を読んでいて、作家は頭が多少悪い方がいい、みたいなことを書いてあった。あれはこう、これはああ、みたいに的確に言ってしまうより、あれはこうかもしれないし、ああかもしれない。またそうかもしれないし、そうだとしたら、ああではない。みたいな、歯切れの悪い運動をしている方がいい、みたいなことを言っている。 まあこれはちょっと違う話だけど。 一対多の関係を作ってしまう表現は、何であれちょっと退屈だな、と最近思う。自分自身としては、そういうことをするのはすごく苦手だ。例えばセミナーみたいなところで、頭から尻尾までまとまった話をすることなど。一方で対面しての会話は本当に好きで、どんなシチュエーションのものであれ楽しむことができる。 つまり上記のような一対多、演者対聴衆、書き手対読み手、のような構造自体が、何となく感覚に合わないのだろう。これはSNSのような双方向のコミュニケーションツールが発達しても同じことは同じで、一対多がたくさん増えているに過ぎないとも言える。だから孤独で憂鬱な感じがするんだろうな。 文章は一対多の構造を持ちがちで、やはり強力に意味や情報を伝えてくるメディアは、この枠組にどうしても収まる。そういう文章は内容やジャンルによらず神経症的に感じてしまう。もちろん面白いものもたくさんあるんだけど。 小説に関して言えば、この構造を抜けることは案外できるように思う。例えばそれは物語の語り部みたいなもので、語り部というのは元々自己表現をする人間でもなく、また新しい情報を伝える人でもない。なぜかと言うと、その人は昔からある同じ話を何度もするし、また聴衆も同じものを何度も聞いているから。そのような場合、その物語の時間というのは、表現や伝達の時間ではなく、もっと別な、全員でノるというか、何か儀礼的な祈りというか、あるいは単なる楽しみというか、いわば感化の時間となる。語り部はその時、ハブになるものではあっても、あくまで一つの機能でしかない。 小説に関しても似たようなことは言えて、自己表現としての小説であればそれは息苦しく、また大抵の小説はそういうものだと思うが、媒介としての小説というのは全然存在できるし、これまでもしてきた。 そういう作品に関して大切なのは、物語自体よりも、その物語へのノり方で、だから作品を読み終わった後にそれについて色々話したりすることは大切だし、書き手もまた一人の読み手として感化されるに過ぎない。 そういう道具みたいなものを作りたいな。