2018.10.12の自動筆記

 

僕は彼女に心底愛情を感じていたと思った。そして愛情とはこういう質のものだとは知らなかった。僕は愛とは自由だと思った。それはすっきりと晴れた秋の日の、何の淀みもないと言えるような空気、それを肺一杯に吸い込んで時間の流れを楽しむような、瑞々しい感情だった。愛の中にはすでに死や別離が予兆として含まれていて、そのために僕はいっそう深くその時間を自由として感じた。一つの場所にいつもいるのに、永遠に旅をしているようなものだった。

 

僕は自分のことがわからなかった。自分の思考、自分の感情、その都度のそうしたものはあまりにも断片的で、自分の全体をこうしたものによって構成できるとは少しも思えなかった。むしろそれをどこかで他人の内面のようにして受けとっていたのだろう。生々しく感じることができたのは、ストレス、抑圧、苦痛、死への感情、それと、緩やかな解放の喜びといったところだった。それは苦痛や快に対して反応する、正体不明の存在、大きな生きた塊のようなものでしかなかった。

僕は自我を世界のようなものとして捉えていた。新しい人に出会うとき、僕はその人を自分の内面性の底から迫り出してきた自分自身でもある聖者のように感じていたのだった。僕たちは仲良くなって色々なことを話した。今までの生活のこと、恋人のこと、これからのプランについて、現状への不満、現状の喜び。そして何よりも僕たちは大きな声で笑い合ったのだった。僕がそのときより強く感じていたのは、何らかの意味でも符牒のようなものだった。それが何だったのかはよくわからないが、そうした神秘的な考え方が僕の他人への受容性の根本を為していたのは事実だった。そしてそうした感受性は何をきっかけとするでもなく、日々の中で着実に成長していたのだった。

自分の思考を思考として扱わず、それが意識に現れて消え去るにまかせた。事実として僕は苦しみ、楽しみ、意志し、また行動していた。しかし、僕は自分の運命に対して過度に受動的だったし、人からしてもそうした印象を与えるようだった。なぜなら自分以外の何かが思考し、感じるように僕は感じていたからで、そうした想念は一方で僕に何かの癒しをもたらすようなことはなかった。ただ、そう思うからそう思うという、それだけだった。僕は物事が心底不思議だと思った。