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ハイになったりローになったり

2016.8.29

8月29日

 

本心ということをそもそも持ち合わせていないとよく言う。だから霊感やイメージに仮託して不足しているものを現そうとしているのだと。

 人間というものの個々を核で結んでいるものが何か分からなくなる。人間はそのつどのものでしかないわけではない。でもまずはそのつどの顔。仕草。言葉。それから傾向があるという以上の何か。この人を知っているということは何か。

 知っているということは一つの信念であって、長い記憶にもとづいている。初めて会う人にも長い記憶によって接している。長い記憶はつまり愛のことであって、悲しさのことである。その記憶は思い出すこともできない記憶もそのうちに含む。自分が持っている記憶のみを人は信じるのではない。それがあると言われている記憶、また他人の記憶、自分のものではないそれを、あると信じることが人を知っているということ、人が一人の人としていることの根になっている。

 

□私は言葉を持てていないのではなくて、早く決めてしまうことが嫌なだけだと、言えるかもしれない。今はそう言ってみたい。あらゆる、ありもしないような可能性のことまで考えていたら、しどろもどろになってしまう。すでに言われたことに乗って話すのなら話は早い。わかるまでわかろうとしなければ奇妙な時間がつづく。

 

 □ 小さい頃の記憶は感情があまりないものが多い。ところどころ、残酷なくらい生々しいものもないではない。それは例えば腹痛の感じだったりする。昼飯を食べたときにくる痛み。それと一緒に光の眩しい校庭を思い浮かべる。それは後悔の感覚。疎外の感覚。なぜかわからないが、大人になって感じるいろいろな苦痛の感覚に増して、そういうものは生々しい。

 ただ眺めているような記憶が多い。時々、全く思い出さなかったようなことを突然思い出す。今書いている瞬間にも、近所の池に亀が甲羅を干していた情景を思い出した。亀はああして水から上がって日向ぼっこをするんだと、同じ時期に教わっていた。

 こうしてただ眺めている感じは、何かを思い出すときに、いつでもそんなように感じる。比較的年をとってからの記憶でもまた、同じようにものを思い出す。学生の頃短い間だけいた演劇のサークルでも、無人の夜の芝居小屋の控え室にパイプ椅子が並んでいるのを思い浮かべたりする。こうして書いていると、ちょっとずつ人の面影が浮かんでくる。私の前に長い足を伸ばして座っている同期の子がいて、その子は隣の同じ同期の子の方を見て口の前に手を当てて笑っている。私が何か変なことを言って、気持ち悪いだとか言って、笑っている。そんなところを思い浮かべる。声は細切れに聞こえるような気がする。具体的な言葉は聞こえない。水がぱしゃぱしゃと跳ね返る音のように細切れに、高い彼女の声だけ何か聞こえる。

 何かを思い出そうとするときに、その人がそこにいると感じるまで思い出すことは誰にしても困難なことなのだろうが、そうできないのは不思議な感じがしないでもない。なぜ前にそこにあったものが、もう一度すっかり戻ってくることがないのか。消えてしまったのにも関わらず、それが実際にあったことだと思っているのはどうしてなのか。思い出そうとするときには、勝手なこともたくさんまつわりついてくるが、そうした余分なものまで含めて懐かしいというか、記憶として眺める感じはある。現実の中にかつての形跡を探そうとしても、限りなくすべてのものは失われていて、ちょっとしたきっかけが残っているにすぎない。アリバイを突き止めたりするときのように、確かに漠然とした記憶と現実の印とが、はっきりと噛み合う瞬間は驚くべきときだ。大抵の物事はそんなふうにはできていない。記憶と記憶とが漠然とぶつかり合っているような感じだ。

 

 人間にとってあるものとは、見ることができたり、触ることができたり、またそうでなくても、感じることができたり、考えることができたり、また信じることができたり、疑念を持つことができたりすることだけで、そうでないものは何もない。そういう膜みたいなものの中に人間はいて、その膜の内側であればいたるところにその人はいるというように感じる。この膜というのはただそういう言葉の上での限界ということを意味しているのではなくて、実際にそんな膜というか、とにかくぐにゃぐにゃと入り組んだものがあって、そんな形を備えたものとして動いている。私たちは夢を見たり、またこれが現実だという現実の中で生きたりするが、そんな膜の中で膜として随時、時間を行ったり来たりするというような感じがある。もちろん現在は現在としてあるのだけれど、この打砕きがたい現在というのが一体何なのかは、全然わからない。

 

 現在ということに強く関わりがあるのは、意志、成功、健康、喜び。また一方で、どん底の抑鬱。記憶ということに関わりがあるのは、現実の喪失。これはいいことでも、悪いことでもない。現在には他人がいる。記憶は一人きりの部屋で、雨の日に過ごすような感じ。

 

 根本的に、現在に関心を持ち得ない、ということがあり得る。現在はあくまで記憶ではなくて、記憶となっていくべく流れていく。記憶をひたすらみつめているということの意味は何なのか。それは記憶によってしか本当に必要なものを得ることはできないと、知らず知らず考えているからだろう。記憶のうちには、記憶が記憶である限りにおいてしかありえない、秘密があって、それを知りたいし、またそれに近づいていたいのだと思う。純粋な孤独があるのは、記憶へ向かっていくときであって、このときは人が一人の人である事実がばらばらになってしまうほど、一人きりになる。もはや一人きりということが意味を持たないくらいに一人きりになる。おそらく究極のところは、そんな人の自我をばらばらにするような、向こうの向こうにある記憶の孤独に、何かを共振させることなのだと思う。人はそれを感じる。どんな人でもそれを感じるし、その共振がない場合には、人は人の人間性を信じることができない。孤独を示すことが、永遠を示すことになる。

 

 記憶は雪のように質量を持って降り積もる

 過ぎ去られる度により重くなり、重大な符丁となって

 取り返しのつかないことを

 極めて謎めいたことを

 初めて意味することを可能にする

 考えることのできない考えに新たに行き着くこと

 それはあまりにも古い。

 ある瞬間には確かに それ を伝えることができること

 その前提条件

 またなぜそんなものがあるのか

 とてつもなく謎めいている