断片2

 夕暮れに花火をして、その四方八方に燃える光、暗闇を伝わってくる焦げついた匂いが、はっきりと鼻孔をとらえる、ひとりでその十年もあとの明け方、椅子に腰かけて今朝の夢を思い出せないでいるとき。

 

 盗まれたその自転車で彼は田んぼの広がる向こうに市民プールのみえる畦道を夏の昼間に走り、病室で胃ろうにつながれた祖父のことを見舞っていた。話すことはあきらめてしまっていた、苛立つのだ、起き上がらない上体を起き上らせようと力をこめ、肩のあたりのパジャマの布が少しだけ動く、目を見ひらいて痩せこけた口から何かを言おうとする、喉をかすめていく呼気の音だけが長くつづき、言葉としての音を結びはじめたいくつかの単語さえ聞きとることはできず、何、何、何を言ってるの、そう尋ねると彼のことが祖母や介護士ではないとそのときはじめて気がついたかのように、怯えとも後悔ともつかない色が表情に浮かんで、祖父は試みていたことをあきらめる。窓辺からきた道の田んぼを眺めてその日出たばかりの週刊少年ジャンプを読んでいた。発売日を選ぶようにして病室にきていたこともある。読み終えてしまうと後からきた祖母に小銭をもらって、また同じ田んぼと白んだ空、吹き飛ばされた紙のように浮かんでいる黒い鳥のかげ、その風景をとりかこんだ車道や街を休憩室で買ったジュースを飲みながら眺めていた。そんなに気をつかわんでもええよ、と言われたその祖母の言葉が何となく脳裏を漂っていて、別に気をつかってるわけじゃないんだけどね、と夕暮れどきの車内でスーパーへ向かう助手席で彼は母に言う。ちょっと出かけていって涼しい病室で何かを読むということはぜんぜん気持ちのいいことなのだ。今日はここから出なくていいや、と彼は言った。母は何か彼に尋ねた。いや、今日は夜がすごく涼しい日だから、と彼は答えた。母は駐車場を横切り、雨よけの狭い屋根の通路を歩いて、成果の棚になっている入口から自動ドアの向こうに入っていった。照明がたくさんついてその辺りはきらきらしていた。エンジンを止めた車内で彼は新しくここへ入ってくる車や、買ったばかりの袋をさげて逆向きに歩いていく人かげをみていた。彼はそのとき何かを思い出していた。その思い出はいつでも頭の中に存在しているのに、普段はまったくないようなものとして忘れさられていて、あるとき、ある状態、ある話題、ある声、ある風景、ある匂い、そんなものだけが突然に呼び起こすことのできる、不思議に生々しく、また白昼夢のようにその意味するところを自分自身で受けとめ切ることのできないような記憶だった。彼は椅子に腰かけていた。それは公園のベンチだった。深い夜で、公園を囲む家々は明かりのついているのも消えているのもあったが、みんなひとしく眠りこんでいるように感じられた。そこで一組の家族が暗さに沈みこんだ青いバケツをひとつ立てて、花火をやっていた。花火はセットになって袋につめられたもので今ビニールのひらかれたそれはわずかな風を受けてひらひらと揺れていた。それは高いところにある白いトイレの前の電灯によってわかるのだった。その家族は一体どんなひとたちなのかわからなかった。誰の顔もはっきりとはみえず、まるでどんな家族でもよさそうだった。しかしそのすべてが自分にとても関係の深いものに思われた。そこにいる父は、子どもは、いずれも自分自身であるように思えた。ある瞬間につよい光が照らせば、そこにはそのときどきの年代の、自分自身の横顔が映し出されるのではないのか。あるいはそこにいる母も、また別の子も、子も、子も……。歓声が上がり、小さな子が輪のまわりを走りまわっていた。

 彼らのしている花火とは別に、まったく違う花火が背後で高く打ち上がって、彼は振り向いて裏手の神社の木々の上空に上がったそれを眺めた。どこかで知らない夏祭りが行われているらしかった。その花火はみたこともない、ステンドグラスのような色彩で、目によってそんなものをみることができるとは信じられないほど、恐いような深い色味で光っていた。頭痛がした。その花火は一つの像として頭の中にいつまでも残り、火花が消えてぱりぱりと溶けていく音とともに失われることはなかった。これはどういうことだろう、と彼は思った。帰り道の交差点で停車するといろいろの車のテールランプだとか、道を照らす明かりが光っていた。それが不思議に恐ろしく感じていることを彼は感じていなかった。そして新しくはじまった連載漫画や打ち切りになったものなどについていろいろのことを話したり、母が昔に読んでいた漫画の話を聞いたりしていた。