『後輩』

 

 何かの会みたいなものに出ている。

 S先輩がいて、口を利いていなかったが一日思いつめたような顔をしていると思っていた。

 会が引けて表の階段から降りていくとき、あんな悩ましそうなSさんに話しかける人がいないなんて、と思う。自分が話を聞いてあげるしかないと。

 そして話しかけると、わたしがそうするのを待っていたようにSさんは静かな頬笑みをみせて、われわれは石の階段に座る。

 Sさんはいつものようにとても論理的で、楽しそうに話す。話の展開が速すぎてわたしは全然ついて行けない。つい適当に相づちを打つことになってしまう。自分が馬鹿なのかと思う。でもよく聞いていると、Sさんの話では必要な内容までが欠けていて、落丁ばかりの本のように、集中しても何のことだかわからないのだった。

 悩みは恋人とのことらしく、Sさんがわたしの反対側へ顔を向けるとそこには若い法師がいた。彼とはすでに問題について話していたようで、頷き合い、ではこうして相談相手がいるならわざわざわたしが相手をする理由はないではないかと悲しくなった。恋人とは三カ月付き合っていた。Sさんの中ではとても長いと言う。それはとても短いですね、とわたしは言う。三カ月の付き合いの相手にそもそもそんな深く悩むことがあるのか。でもSさんの表情が真剣で輝いてみえ、こうした熱心な話しぶりや没頭した感じに魅かれる相手もいるだろうと思った。

 お前これからこれる、と言われた。ええ、たぶん……そうですね、用事はないと思いますけど。

 これからN津へ行く、とSさんは言った。なぜN津に行くのだろうとわたしは思った。彼はいつの間にかあの辺りに引っ越していたのかもしれない。いや、そうか、Sさんの恋人がそこに住んでいるのかもしれない。同じ大学だから。随分近くに住んでいるものだ。

 石の階段を降りると観光客の雑踏だった。山歩きの格好をした人々にわれわれは押し流された。

「この先の交差点で会うことになるから」

 とSさんが言って、どんどん先へ進んでいった。

 わたしは財布の入った鞄を忘れていたことを思い出して、消えていく彼の方へそう叫ぶと、引き返して石の階段を昇った。鞄は太い柱の際に置いたままになっていた。法師も元いたところに座っていて、昇ってくるわたしをじっと無言で見ていた。鞄の中身を確認すると法師の隣りに座って一息ついた。

 法師が指さす方を見ると、森の中心の禿げ渡った辺りで、何か黒いものが疾走していくのが見えた。石段を下った場所は観光客向けの通路になっており、そこから広大な森を見下ろすことのできるようになっていた。空はそこに蓋をするようにして薄曇りだった。

 その疾走するものは犬たちに追われながら森へ入り、そこからさらに少し昇って、柵の下にヘソのように開いた小さな穴目がけて飛び込んで行った。その上はお堂になっていた。

 わたしは駆け出して、それが上昇してくるのに間に合うように急いだ。その疾走するものはSさんなのだろうと思った。なぜかわからないが確信していた。

 土にボール状の穴が開いていた。やがて入浴剤が溶けるような音と勢いで、その丸い外壁が揺らぎはじめた。そして段々白いねずみや鳥の雛みたいなものがごちゃごちゃと行ったり来たりをはじめた。土から生まれて、土に入っていく。ねずみと鳥の高い擦れるような鳴き声がずっと聞こえた。周囲に見ている者は誰もいなかった。やがてきらきらと鮮やかな毛色のきつねが穴の真ん中から顔を出した。昇ってきたのだ。前脚も出ていた。

 きつねは美しい黄色い目と狭い瞳孔でわたしを見つめた。その深刻な様子はSさんそのものだと思った。

 堂の階段を下りていくと、檜の匂いがする狭い部屋に法師が座っていた。脚を投げ出した雑な座りぶりで、こうして見ると彼はわたしのことを後輩だと見なしているのだと思った。窓には障子があり、檻のような木の枠が掛けられていた。透かして入る陽ざしはとても繊細で、いかにも昼の日陰らしかった。床が四隅の一方へ向けてかなり強く傾いていて、ずり落ちないように注意しながら法師のそばへ腰かけた。

 よい後輩になれるかもしれなかったけれど、途中から実は疎遠になっていたのだ、とわたしは話した。確かに彼はわたしに目をかけてくれていたけど、彼のそばにいると実際は少ししんどかったのだ。向こうが目をかけてくれるのに、あまり相性が合わないことってよくあるでしょう。いや、そうではなくて、本当は目をかけてくれているということもなくて、自分だけが重荷に思っていたのかもしれないけど、とにかく後になっても僕は気にしていましたよ。時々思い出すように気に掛けるというよりは、何か大きなものの磁場によって、その周囲の一つ一つが、一瞬ごとに、少しずつ、ごくわずかな誤差みたいに、引力を受けるような仕方で。会うことは、とても少なかったですけど。それで、お互いのことは忘れてしまったのだ。だから、今日こうして話すことになった巡り合わせは不思議だし、どうしてだろうと思いますよ。

「そうですか」

 とだけ法師は言って、じっとわたしの目を見た。話しながら、この人が言うことに少しの合意も見せず、ただ押し黙って目を見て聞いているので、それは否認の証なのではないかと焦って、ふいに何度も言いまわしを変えてしまっていた。だから意図せざることを意図せざる仕方で話してしまい、自分が何を言っているのかもよくわからなかった。法師はわたしの言葉を決意と受けとったように、立ち上がり、奥の木戸を開けて、裏の駐車場へわたしを誘った。

 運転中は何度も怒鳴られた。免許を取ったきりで不慣れな運転だったのだ。足元に黒い袋みたいなものが落ちていて、始めにはそれに気づかなかった。袋に右足が固定されたせいで、もがいてももがいても、ブレーキを踏むことができずに車が加速した。

「馬鹿野郎。小野大野だと言っている!」

 小野大野とは一番左寄りの妙に狭い車線がそこへ向かっている地名だった。先行車に何度も激突しそうになりながらも、何とかわたしは黒い袋を脱ぎ棄てることに成功した。そして、われわれは小野大野へ向かった。