苺みたいにぶつぶつの空


酔って寝て、夜中に目が醒めると、頭の中で気持ちの悪い映像が、だらだら流れている。

人間の肉や内臓、血のぐちゃぐちゃになったもの。それがハンバーグのように捏ねられていたり、湿った土の坂道の上に落ちていたりする。

また、四方八方にうじゃうじゃする、蛆虫や、腐った木の中をうごめくたくさんの虫が、頭の中の暗闇を出たり入ったりする。

その虫が僕の内部から顔に向かって集まり、唇から這い上るようにして吹き出す、という様を想像する。

それは、「ああ、『死の観念だな』」と僕は思う。言葉よりもイメージで、死について思考している。僕ではなく、僕の脳が思考しているという感じ。それは変で、宇宙が思考してる、みたいな感じとも似ている。

完全なリラックス

完全にすべてが

リラックスした状態では

本当に何もかもが

どうでもよく

重要で

意味に満ち

虚無で

輝かしい


出かけたいけど

出かけたくなく

死にたいけど

死にたくもない


そしてそれは

決してネガティブな意味ではない


完全な状態だ


その完全な

リラックス状態は

いつくるかもわからないが

くると長くつづき

すべてを受容するような気持ちになり

創造性は高まり

内的なイメージは結び合って

極めて主観的な

快楽をもたらす


そんなときに誰か人といたら

驚くほど楽しく

きっと薬でもやってるみたいに

笑い転げたり

仲良くなったりするだろう


でもそんな時間がくるのは

大抵ひとりでいるときだし

そんな気持ちのよさは

あまりわかってはもらえないけど


でもやっぱり

いい気分はいい気分だ

 人がまっさらな感情を抱いて、何かに挑もうとすること、何か別のことをしようとすることは、なぜ感動的なんだろう? つまらない、広い視点からみれば、何であれこの世の中で起こる出来事は無益で、虚無的でさえあるように思う。だったらなぜ人は、その中で何かをしようとし、そして絶えず何らかの感情を抱くのか。それは一体何のためなのか、一つの本能、抱かざるを得ない欲望のようなものなのか。でも、結局人は何かを感じざるを得ず、何かを証明せざるを得ず、そうして生きざるを得ないだろう。本当の悲しみは、虚無に向かって自分をひた走らせる感情にある。でもこれも、僕たちの本質から分かちがたいものだ。そのような意味では、人は自死を望むからこそ生きて、そして強い感情を持つこともできる。これは本当に解けない謎だと思う。永遠にこのプロセスの中にいると言ってもいい。どこまで行っても、すべては虚無であり、また虚無ではない。

僕はそこに出かけていかなければならない。シャワーを浴びて髭を剃り、髪を乾かして、服を身につける。鏡の中の自分の顔を見る。あまり気が進まないな、と思う。しかし、最低限、乗るべき電車の時間のことを思い出す。窓の外は曇っている。家には僕の他に誰もいない。

 

ファミレスで僕とHさんは長い時間あれこれと喋っていた。赤ワインをたくさん飲み、すごく酔って、楽しく、時間を忘れた。

暗い夜の帰り道で、僕はその情景をふと思い浮かべていた。踏切の中を、電車が大きな音を立てて通り過ぎていく。すごく寒くて、空が澄んで感じる。遠くの音が聞こえてくる。僕はなぜかいてもたってもいられなくて、早足に歩いていく。

風呂場にいる僕は湯船に身を横たえている。僕は強く目をつぶり、眠ってしまっているように動かない。窓からは昼時の白い光が射し入っている。僕は立ち上がり、立ったままシャワーを浴びる。僕はこういう体をしているのだな、と思う。体型はがっしりしているが、肩はやや丸まっている。

 

(それと同時に)

 

居間にいる僕は低いソファに肘をついて、ほとんど横に寝ている。風呂場に入っているのと同じ時間の日射しが射し込んでいる。下から見上げるようにしてテレビを見ているのだが、そこに映っているのは何なのかわからない。何か赤い、波を打つ内臓のようなものが、解像度の低い映像の向こうに流れているのかもしれない。音声も聞こえるが、漫才か何かのようにせわしなく、でも、それもモゴモゴとした音で、何を言っているかよくわからない。

 

僕が洗面所で体を拭い、廊下を踏む、きっ、という音が聞こえる。そしてそれから僕たちは出会うことになる。(それは死ぬことを意味すると思う)