2016.7.2

じいさんの家で過ごしたある夕暮れの時刻。夕暮れとは言ってももうすっかり暗い。母が子どものときから使っていた木の机に同じように古い電気スタンドがあって、それはオレンジ色のスタンドで、暖かい色の光を発した。その明かりはまるでマッチを擦って起こした火のような色で、印象だけではなくて事実温かくて、熱くて、細い短い黒い線の横へ走る木目の上へ落ちるとその辺りを暖かくしたし、ノートの上へ寄せた手の甲に熱を感じてもいた。そのスタンドをつけているといつも朝から風通しのため半分ほど開けてある雨戸に隠れた窓が鏡になって、レースのカーテンをすっかり寄せてしまうと光に浮かび上がる自分と部屋がみえた。その明かりもすでに消してしまっていた。ついさっきまでそれがついていた印象だけが残っていて、でも本当には暗くて、まだ雨戸を閉めていない(夕暮れになるとわたしがいるときはすべての雨戸をわたしが閉めることになっていた、階段を降りてスリッパをつっかけて庭へ出て、飛び石の上をつたいながらガラガラと近所へも響く音を立てて閉める)窓から少し寒く感じるような風が吹き込んでくる。遠くで、もしかしたら近くで、虫の鳴いている声がずっとしていた。もう夜だった。

 

夜中の三時に珍しく目が覚めた。その頃わたしは受験を控えているので物置になっていた玄関のすぐ傍にある三角形の小さな部屋を自分の部屋にして布団を敷いて寝ていた。激しい音が鳴って絶対に寝過ごすことのない目覚まし時計のデジタルの赤い文字盤が時刻を示していた。窓のカーテンを締め忘れていて立ったわたしは生協の広い駐車場をひとりの男が歩いていくのを見る。ぱたん、と車のドアが閉まる音はすでに夢の中で聞いたような気がしていて、男は歩いて駐車場の敷地を出ていく。ゆっくり歩いていく男の姿は小さい。辺りは白い明かりでずっと照らされている。

 五時にまた目が覚めて今度は居間へインスタントコーヒーを淹れにいった。いつものように牛乳を軽く注いで戻ってきた。コーヒーの素が少し黒いダマになって、やがて茶色い膜をただよわせながら溶けていった。廊下で音がしてノブがまわると父がドアを少し開けて、起きてる、とわたしは言う。

2016.7.20

その中古車屋の敷地を囲ってのぼりが出ていた。のぼりは黄色やピンク色でみんなぱたぱたはためいていた。フロントガラスには値段の紙のプレートが出ていた。赤い車も黒い車もくすんだ空の下ではくすんだ色をしていた。やがて細かい雨が風にまざってくると、旗もぷつぷつと濡れた。

 

ある晴れた日に学校帰りの少年がポケットから小銭を出して車と車の間に挟まれている自販機でジュースを買った。ジュースを帰りに買うことは禁止されていた。もう一人いっしょにいた少年はそもそも自分のお金で勝手にジュースを買うと言ったことさえしたことがなかった。「今こいつのシール集めてんの」と言ってシールだけとって筆箱に貼った残りの缶を、枝分かれした道から一人になって歩いていくとき彼はじっと見ていた。キリンだとか、シマウマだとか、そんな動物のデフォルメされたのが、笑っていたり、無表情でこっちを見ていた。家に持って帰っては怒られるとわかっていたから、道と道を隔てるブロック塀の上にその缶をおいた。缶はぴったり正面がこっちに向いていた。一番表の面には尾ひれを脚にして立つピンク色のクジラがいた。

2016.7.12

「今日はとても空が晴れてる」

「雨降ってきた。じめじめする」

「ごめん、ついさっきまでうとうとしてたんだ」

「それにしてもあっつい日だな」

「ホームはこっちでいいのかな。あと何分後に次の列車はくるのかな」

 [柱の時刻表を覗き込んで]

43分と書いてあります。20分そこそこです。ああ、こっちは休日だった。38分です」

「お前おもしろいな」

「今のちょっともう一回やってみて」

「もうここのとこに草がなくなったので無理です」

「いやー、こいつはうまい」

「今度おいしいそばの店へ案内するよ」

「昨日変な夢をみたんだ」

「どんな夢です?」

「いや、思い出せない……

「おい、もう15分も過ぎてるぞ」

「いや、ちょっと忘れものを取りに戻っていただけです」

「だけってなんだ。だけって言うのは誰なんだ」

「口が滑ったんです。だけってことじゃなくて、そういう意味なんです」

「そうだよ。すぐ隣りの駅であったんだよ。犯人捕まってないの」

「見たの?」

「見たわけないじゃん。わざわざ駅で降りて見に行くとでも思うんですか。そんな野次馬じゃありません」

「それって一般論で言ってるんですか。それとも僕のことを見て言ってるんですか」

「あんた難しいこと聞くね」

「難しいですか」

「そりゃ一般論だよ。あんたのことほとんど何も知らないもの」

「心外だな。もう3ヶ月もいっしょにいるじゃないですか」

「家が燃えている……

「正直ね、けっこうきついよね」

「話聞こうか?」

「いや……、別にいい」

「帰り8時過ぎるよ。遠いな」

「のんびりしすぎましたね」

「あいつめっちゃショック受けてたぞ」

 

「もう寝た?」

「うとうとしてました。また寝る」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 

「8番線ホームから沖津根津行きの発車です」

「まあ近況報告はこんなところ」

「よくそんな派手な車買うもんだね」

「いや、そんなにもらっても俺も食べきれないから」

 

「だから言ったろ。中華料理屋の中に中華料理屋だって。その中のがうまいんだって」

「すいません、ごちそうさまです」

「またお話ししましょう。ではさようなら」

2016.7.5

夏だったけれどリビングの窓が開いていると廊下も風が吹き抜けて涼しかった。壁に反射して白い光が洗面所のある廊下へも流れ込んでいる。レースカーテンを膨らませていた風がしっかり留められていない小部屋のドアを吹き飛ばして、金具を打ちつけ大きな音を響かせる。

 ザリガニがいて深い青いバケツいっぱいに入っていた。父の勤め先の事務所の前には、近所ではみたことのないほど幅の広い溝があって、たっぷりした水が川のように小さく波立ちながら流れていた。その水は澄んで底の緑のコケや、陽から遠くて黒く静かにみえるザリガニ、水面近くを泳いでいるオタマジャクシもみえた。網ですくっていくらでも捕れたザリガニを全部持ち帰ってきたのだけれど、そのバケツを家のワゴン車で運んだのだろう夕方の記憶は彼にはない。今では一本の支柱から枝状に伸びた腕に家族の帽子や上着をかけるようになっているコートかけがその頃にはなくて、玄関の隅のその場所にバケツは置かれ、水の底が静かだったように日曜の昼間、廊下はひっそりしていた。

 磨りガラスの小窓から光の入ってくるその下で、ちゃぷんと音がした。水はとてもきれいで、小さな黒いごみつぶのいくつか浮かんでいるのを除いたら、本当に透明だったのだと思うけれど、本当はきっとそうではなかった。とてもにおったからだ。海みたいな、魚みたいなにおいがすると思った。ザリガニは死にかけていた。その昼は生きていた。数日もしないうちにみんな共食いして死んでしまった。後で一つのところへ入れておくとそうなってしまうザリガニの習性を知った。それは母が調べたのだった。

 母は膝の上で夜、本を閉じた。丁度赤いザリガニが表紙でヒゲをもたげている、水に住む生き物についての図鑑だった。その本の中には、ザリガニの共食いのことは書いてなかったけれど、何でも気になったことを調べる手間を惜しんではいけないと、その日ではない別の日に、繰り返し母は言っていた。

2016.5.30

廊下をまっすぐ歩いていくのを教室から出て見ている。左の方へ彼はふっと折れる。見えなくなる。彼が感化院に入ったことがわかる。感化院? 感化院に入ってよかったと思う。

 やっぱり彼は錯乱していたのだ。さっきまでの態度は錯乱だったんだな。廊下を出たところでえりに言う。彼女の方がさっきまでのあれが錯乱だったのだとはっきりわかっていたようで、そういう目でじっとうなづいている。Kの方はおかしいと思っていたが、まだ正気を失っているというほどではないと思っていた面もある。というか、大なり小なり、K自身がそういう脈絡を欠いた、拡散する話をしているのではないかと不安もあった。

 電車の青いシートの上で二人は話す。でもミランダは彼のことを好きだとみんなの前で言ってたじゃないか、とKは言う。ミランダの性格からすると、そんなふうに愛情について言い切ることは、よっぽど確かなことなのかもしれないと思っていた。そこだよ、とえりは言う。本当のことに確信がないからこそみんなの前で主張したがる。Kはそう聞いて納得する。確かにそんな態度もミランダらしいとも思えた。だが、えりはミランダを自分へ引き寄せて考えている、とも思った。しかし洞察力の点ではKの方がぼんやりしていた。

 文化祭のパンフレットの絵は校内で公募されたもので、小学生が漫画を見て描いたような、下手くそな目の大きい制服の男女が座っていた。頭も大きくて、巨大な黒目がきらきらしていた。女の方の髪は雨みたいな一方向への鉛筆の線で描かれていた。背景は空の下で、高架道路がまがっていくところだった。なぜ高架道路なのか。それがとても目立っていた。そのイラストを一生懸命描いた女の子のことを考えた。

 彼はがっしりした体型で、顔は女性的に整っていた。髪がながくて、額に分け目があった。髪はさらさらしていて金髪だった。彼は白人で可愛らしかった。青い目で、じっと見据えているとき切なげだった。迷いや繊細さ、傷つきやすさがその目に現れていた。カンガルーみたいだと思った。なぜカンガルーなのか。すらっとしたところがカンガルーに似ていたからかもしれない。

 夕日の射すがらんとした教室で、Kは彼に追い回された。決して走りはしなかった。あみだくじのような動きで机と机の間を縫って行ったりきたりした。暴力的ではなかったが執拗だった。両腕を広げて身ぶり手ぶりで彼は主張した。主にミランダへの気持ちについて彼は言っていた。少なくとも言っていたのだろうとは思う。彼の錯乱は彼の確信を崩す方向へ働いていた。だから言い訳めいたところもあり、ミランダを愛する気持ちが言葉の中で崩れたり、組み立て直されたりしていた。Kはだからそれがあながち錯乱だとも思わなかった。目はとても真剣だった。彼は真面目に悩んでいた。その真剣さをKにわかってほしかったのかもしれなかった。彼が廊下を突っ切っていって感化院に入ったのにはほっとした。だが夕日の中に立つ彼の大きい姿が頭の中で相変わらず立っていた。

 

斜めに降る雪が街灯に照らされている。雪の流れはゆっくりしていて、すでに薄くだけアスファルトの地面に積もりかけている。Kたちは住宅街の角を折れてここを通りかかった。たまたま、こんなに広くひらけて、ドラマチックになっている場所を発見した。真っ先に立ち止まった小林さんはポンチョみたいなのをきた両腕を広げて、街灯を見上げていた。きれー、と口で言う前に顔がもうそう言っていた。街灯はとても高くて彼らが小さな生き物になったように思うくらいだった。見上げると雪によって示された空間の広がりを感じた。光は均質な広がりではなかった。ちょうど海水の温度に場所によってばらつきがあるように、光の広がり方にもばらつきがあった。照らされた雪の形づくる輪郭は生き物のようだった。

 

メインの仕事から外れてよかったね、と事務職の女が言ってきた。ミランダは青いカーペットの部屋のソファにいた。ミランダは仕事から外れたくて外れたわけではなかった。いや、5ヶ月の間は実際に自分から外れたいと思った。でもその理由も自分自身に発するのではなかった。5ヶ月間だけなの、と言おうと思ったが言わなかった。事務の女は本当にミランダを祝っているようにも見えたし、馬鹿にしているようにも聞こえた。どっちにしても納得がいかないから同じだと思った。ポスターを見上げるとそれは農業に関するものだった。新幹線が右から左に走っている。緑の畑があって、そこで大根やじゃがいもなどが育てられる。

2016.5.25

 

天井だけ暗く青く光るゲームコーナーがガラス越しにみえる。アームは右から左に動いていく。マシンの中は明るいからそれは夜空のUFOのように浮き上がっている。お金は入っていない。勝手に動いているだけだ。ガラスの向こうに二人の男の子がいて覗いている。乗り出してもたれかかるようにしている彼らの顔は少し歪んでいる。ガラスそのものがカーブを描いているので歪んでいる。片方はアームの動きをみつめている。右の片方は積まれた景品をみている。二人とも首や肩から下はみえない。もたれている腕はみえる。髪も上へしたがって溶けていく。時々天井の照明が雷のように(実際に雷を模して)白くなり、長い線を描いたり点滅したりする。それでも辺りは暗い。二人の奥には暗くてみえにくい人かげがある。スロットが光っている。スロットの文字盤が光っているのが遠い埠頭にみえる灯台の明かりのように浮かんでいる。そんなふうに無数の光がある。レースゲームの画面の斜めに途切れて走りつづける。それは長い長い川の流れのようでもある。

 少年は右からささやかれる。音がうるさすぎるせいかよく聞こえない。耳を近づけてみる。口を近づけてくる。息がかかる。その息はくさい。細い腕が彼の向こう側の肩を今は抱きかかえている。

 銃声のようにふいに声がする。誰かが叫んで彼のことを呼んだみたいだ。本当に呼ばれたのかどうかわからない。音の輪郭がぼやけて消えていった。青い天井がまた明滅している。いろんな人がいるのに誰のこともみえない。きっとここは暗すぎる、と思う。誰かがレースゲームのブースの中にいて、とても強く何かを蹴っている。

「行こう」と少年は言う。何か大きくて重い石の輪のようなものがこれから激しい速度でまわる予兆を含みながら、今おずおずと動きはじめている、というふうに感じていた。彼を抱いていた手はもう外れていた。①②と書かれた赤いボタンと、同じ色の操作用の棒が、白いにごった光に照らされている。目を上げると、弟はガラスの向こう側でこっちに向かってふざけていた。