2016.7.11

 黒い長い髪の女。干上がった川底のひびわれた土を踏んで歩く。彼女はサンダルを履いている。彼女はスニーカーを履いている。ひびわれた地面からは枝分かれした細い茎のいっぱいに伸びている。飛び散るように咲いた小さな花を彼女は見下ろす。しゃがんで見る。手でつかんで鼻先に近づける。黒い写真の中で彼女のことをみた。その日彼女はそこにいた。黒い空、遠くの鉄橋、晴れた昼間の空がただ広く黒く広がる。彼女はその花の名前を知っているし別の花も知っているし彼女にとってそのひび割れはひび割れ以上のものだ。電車に乗って彼女はそこにきた。その前はアパートの部屋にいた。その部屋で泣いていたこともあった。自転車を持っていた。彼女はいくつかの芸術を試みた。試みてはやめた。トーストではなくご飯と味噌汁を朝に食べる。彼女はグミを食べる。彼女が食べるグミの種類はいつも変わっていく。

 窓の外で電車の音がする河川敷にすごい色の暗い夕暮れがくる。夜に彼女は帰ってくる。朝には目が覚める。テーブルの上で髪をかきむしる。レンジでパックのご飯が温まり終わる。

2016.7.5

夏だったけれどリビングの窓が開いていると廊下も風が吹き抜けて涼しかった。壁に反射して白い光が洗面所のある廊下へも流れ込んでいる。レースカーテンを膨らませていた風がしっかり留められていない小部屋のドアを吹き飛ばして、金具を打ちつけ大きな音を響かせる。

 ザリガニがいて深い青いバケツいっぱいに入っていた。父の勤め先の事務所の前には、近所ではみたことのないほど幅の広い溝があって、たっぷりした水が川のように小さく波立ちながら流れていた。その水は澄んで底の緑のコケや、陽から遠くて黒く静かにみえるザリガニ、水面近くを泳いでいるオタマジャクシもみえた。網ですくっていくらでも捕れたザリガニを全部持ち帰ってきたのだけれど、そのバケツを家のワゴン車で運んだのだろう夕方の記憶は彼にはない。今では一本の支柱から枝状に伸びた腕に家族の帽子や上着をかけるようになっているコートかけがその頃にはなくて、玄関の隅のその場所にバケツは置かれ、水の底が静かだったように日曜の昼間、廊下はひっそりしていた。

 磨りガラスの小窓から光の入ってくるその下で、ちゃぷんと音がした。水はとてもきれいで、小さな黒いごみつぶのいくつか浮かんでいるのを除いたら、本当に透明だったのだと思うけれど、本当はきっとそうではなかった。とてもにおったからだ。海みたいな、魚みたいなにおいがすると思った。ザリガニは死にかけていた。その昼は生きていた。数日もしないうちにみんな共食いして死んでしまった。後で一つのところへ入れておくとそうなってしまうザリガニの習性を知った。それは母が調べたのだった。

 母は膝の上で夜、本を閉じた。丁度赤いザリガニが表紙でヒゲをもたげている、水に住む生き物についての図鑑だった。その本の中には、ザリガニの共食いのことは書いてなかったけれど、何でも気になったことを調べる手間を惜しんではいけないと、その日ではない別の日に、繰り返し母は言っていた。

2016.5.30

廊下をまっすぐ歩いていくのを教室から出て見ている。左の方へ彼はふっと折れる。見えなくなる。彼が感化院に入ったことがわかる。感化院? 感化院に入ってよかったと思う。

 やっぱり彼は錯乱していたのだ。さっきまでの態度は錯乱だったんだな。廊下を出たところでえりに言う。彼女の方がさっきまでのあれが錯乱だったのだとはっきりわかっていたようで、そういう目でじっとうなづいている。Kの方はおかしいと思っていたが、まだ正気を失っているというほどではないと思っていた面もある。というか、大なり小なり、K自身がそういう脈絡を欠いた、拡散する話をしているのではないかと不安もあった。

 電車の青いシートの上で二人は話す。でもミランダは彼のことを好きだとみんなの前で言ってたじゃないか、とKは言う。ミランダの性格からすると、そんなふうに愛情について言い切ることは、よっぽど確かなことなのかもしれないと思っていた。そこだよ、とえりは言う。本当のことに確信がないからこそみんなの前で主張したがる。Kはそう聞いて納得する。確かにそんな態度もミランダらしいとも思えた。だが、えりはミランダを自分へ引き寄せて考えている、とも思った。しかし洞察力の点ではKの方がぼんやりしていた。

 文化祭のパンフレットの絵は校内で公募されたもので、小学生が漫画を見て描いたような、下手くそな目の大きい制服の男女が座っていた。頭も大きくて、巨大な黒目がきらきらしていた。女の方の髪は雨みたいな一方向への鉛筆の線で描かれていた。背景は空の下で、高架道路がまがっていくところだった。なぜ高架道路なのか。それがとても目立っていた。そのイラストを一生懸命描いた女の子のことを考えた。

 彼はがっしりした体型で、顔は女性的に整っていた。髪がながくて、額に分け目があった。髪はさらさらしていて金髪だった。彼は白人で可愛らしかった。青い目で、じっと見据えているとき切なげだった。迷いや繊細さ、傷つきやすさがその目に現れていた。カンガルーみたいだと思った。なぜカンガルーなのか。すらっとしたところがカンガルーに似ていたからかもしれない。

 夕日の射すがらんとした教室で、Kは彼に追い回された。決して走りはしなかった。あみだくじのような動きで机と机の間を縫って行ったりきたりした。暴力的ではなかったが執拗だった。両腕を広げて身ぶり手ぶりで彼は主張した。主にミランダへの気持ちについて彼は言っていた。少なくとも言っていたのだろうとは思う。彼の錯乱は彼の確信を崩す方向へ働いていた。だから言い訳めいたところもあり、ミランダを愛する気持ちが言葉の中で崩れたり、組み立て直されたりしていた。Kはだからそれがあながち錯乱だとも思わなかった。目はとても真剣だった。彼は真面目に悩んでいた。その真剣さをKにわかってほしかったのかもしれなかった。彼が廊下を突っ切っていって感化院に入ったのにはほっとした。だが夕日の中に立つ彼の大きい姿が頭の中で相変わらず立っていた。

 

斜めに降る雪が街灯に照らされている。雪の流れはゆっくりしていて、すでに薄くだけアスファルトの地面に積もりかけている。Kたちは住宅街の角を折れてここを通りかかった。たまたま、こんなに広くひらけて、ドラマチックになっている場所を発見した。真っ先に立ち止まった小林さんはポンチョみたいなのをきた両腕を広げて、街灯を見上げていた。きれー、と口で言う前に顔がもうそう言っていた。街灯はとても高くて彼らが小さな生き物になったように思うくらいだった。見上げると雪によって示された空間の広がりを感じた。光は均質な広がりではなかった。ちょうど海水の温度に場所によってばらつきがあるように、光の広がり方にもばらつきがあった。照らされた雪の形づくる輪郭は生き物のようだった。

 

メインの仕事から外れてよかったね、と事務職の女が言ってきた。ミランダは青いカーペットの部屋のソファにいた。ミランダは仕事から外れたくて外れたわけではなかった。いや、5ヶ月の間は実際に自分から外れたいと思った。でもその理由も自分自身に発するのではなかった。5ヶ月間だけなの、と言おうと思ったが言わなかった。事務の女は本当にミランダを祝っているようにも見えたし、馬鹿にしているようにも聞こえた。どっちにしても納得がいかないから同じだと思った。ポスターを見上げるとそれは農業に関するものだった。新幹線が右から左に走っている。緑の畑があって、そこで大根やじゃがいもなどが育てられる。

2016.5.25

 

天井だけ暗く青く光るゲームコーナーがガラス越しにみえる。アームは右から左に動いていく。マシンの中は明るいからそれは夜空のUFOのように浮き上がっている。お金は入っていない。勝手に動いているだけだ。ガラスの向こうに二人の男の子がいて覗いている。乗り出してもたれかかるようにしている彼らの顔は少し歪んでいる。ガラスそのものがカーブを描いているので歪んでいる。片方はアームの動きをみつめている。右の片方は積まれた景品をみている。二人とも首や肩から下はみえない。もたれている腕はみえる。髪も上へしたがって溶けていく。時々天井の照明が雷のように(実際に雷を模して)白くなり、長い線を描いたり点滅したりする。それでも辺りは暗い。二人の奥には暗くてみえにくい人かげがある。スロットが光っている。スロットの文字盤が光っているのが遠い埠頭にみえる灯台の明かりのように浮かんでいる。そんなふうに無数の光がある。レースゲームの画面の斜めに途切れて走りつづける。それは長い長い川の流れのようでもある。

 少年は右からささやかれる。音がうるさすぎるせいかよく聞こえない。耳を近づけてみる。口を近づけてくる。息がかかる。その息はくさい。細い腕が彼の向こう側の肩を今は抱きかかえている。

 銃声のようにふいに声がする。誰かが叫んで彼のことを呼んだみたいだ。本当に呼ばれたのかどうかわからない。音の輪郭がぼやけて消えていった。青い天井がまた明滅している。いろんな人がいるのに誰のこともみえない。きっとここは暗すぎる、と思う。誰かがレースゲームのブースの中にいて、とても強く何かを蹴っている。

「行こう」と少年は言う。何か大きくて重い石の輪のようなものがこれから激しい速度でまわる予兆を含みながら、今おずおずと動きはじめている、というふうに感じていた。彼を抱いていた手はもう外れていた。①②と書かれた赤いボタンと、同じ色の操作用の棒が、白いにごった光に照らされている。目を上げると、弟はガラスの向こう側でこっちに向かってふざけていた。

・その昔靴を泥だらけにしながらエアガンの打ち合いをしていた広場は、一棟の背の高い塔を除いてその向こうにみえるものは何もなかった。どんよりした空だけみえた。今にも雨が降りそうに空気が湿気ている。その塔は赤かった。くすんだ赤い色だった。その塔の赤い非常階段みたいな階段を上っていくと、てっぺんから巨大な水鉄砲みたいなものが打てるようになっていた。そこから地上の子どもたちに向けて放水するとびしゃびしゃになって遊んでいた。そんな光景をよく思い出したのだけれど、エアガンの打ち合いをするころには塔の水鉄砲は壊れたか、あるいはもう使えないことになっていた。

 

・ドーム状の屋根の下が何の施設になっているのか知らなかった。白いふちのガラスのドアには鍵がかかっていて、全体にブラインドが降りていた。座席とテーブルがあって、整然と並ぶよりは雑然としていたようにみえた。外が真昼でも中は暗くて静かで、涼しそうだとも、ほこりっぽそうだとも思った。その建物をめぐって真っ赤な縄が張りめぐらされていた。後方から階段で登れるようになっていて、そこからは手足でよじ登るのだった。縄は固くてざらざらして、風雨に晒されているので少しずつ色あせていた。登るとまるで亀の甲羅の上にいるみたいだと思った。でもその建物は亀ではない生き物を模して作られていた。それが何の生き物かはわからなかった。ずっと見上げるほど高い首がそびえていて、頭部の両側から目玉が飛び出していた。恐竜のようにもみえたし、きりんみたいでもあった。でもそれは水鳥なのだと後になってわかった。

 

・おじさんが新興宗教に入っていて、今でも色々と買っているだろうけれど、昔も物を買わされるというか、買うときがあって、祖父母のお金を使って買った絵が一枚、玄関から階段を登っていった突き当りのところにかけてある。階段はそこでL字に折れ曲がってまたちょっと登り、二階にいたるのだがその全体が吹き抜けになっている。だから絵は壁のかなり高いところにかかっていて、踊り場というには狭いその曲がり角にはしごでも置いたのでなければ、かけられないようなところにある。昔からその絵はあって、虹のかかった空の下の小さな家から、カラフルな服を着たインディアンのような少年が手前に向かって走って逃げてきている絵だった。よい絵だと思ったわけではないかもしれないが、なんだか印象に残ってみていた。背景は空の水色と地面の白で2分割されている。白い地面には少年の影が小さく落ちている。あと、黒い点で表現されたいくつかの足跡。この絵に祖母が文句を言っているのを聞いたのはかなり後になってのことで驚いたものだ。高く買わされた絵で、みる度ににくしみを感じる。「でも、いい絵でもある」と二十四の私が言ってみた。「確かにいい絵でもあるかもしれない」と言って祖母は感心している。だからきっと隠さずに憎しみながらもかけておく気になったのだろう。三歳より小さなころから私はこの絵を見上げていた。その時私は階段の曲がり角で壁に手をついて、鼻くそをほじって食べたりしていた。

断片2

 夕暮れに花火をして、その四方八方に燃える光、暗闇を伝わってくる焦げついた匂いが、はっきりと鼻孔をとらえる、ひとりでその十年もあとの明け方、椅子に腰かけて今朝の夢を思い出せないでいるとき。

 

 盗まれたその自転車で彼は田んぼの広がる向こうに市民プールのみえる畦道を夏の昼間に走り、病室で胃ろうにつながれた祖父のことを見舞っていた。話すことはあきらめてしまっていた、苛立つのだ、起き上がらない上体を起き上らせようと力をこめ、肩のあたりのパジャマの布が少しだけ動く、目を見ひらいて痩せこけた口から何かを言おうとする、喉をかすめていく呼気の音だけが長くつづき、言葉としての音を結びはじめたいくつかの単語さえ聞きとることはできず、何、何、何を言ってるの、そう尋ねると彼のことが祖母や介護士ではないとそのときはじめて気がついたかのように、怯えとも後悔ともつかない色が表情に浮かんで、祖父は試みていたことをあきらめる。窓辺からきた道の田んぼを眺めてその日出たばかりの週刊少年ジャンプを読んでいた。発売日を選ぶようにして病室にきていたこともある。読み終えてしまうと後からきた祖母に小銭をもらって、また同じ田んぼと白んだ空、吹き飛ばされた紙のように浮かんでいる黒い鳥のかげ、その風景をとりかこんだ車道や街を休憩室で買ったジュースを飲みながら眺めていた。そんなに気をつかわんでもええよ、と言われたその祖母の言葉が何となく脳裏を漂っていて、別に気をつかってるわけじゃないんだけどね、と夕暮れどきの車内でスーパーへ向かう助手席で彼は母に言う。ちょっと出かけていって涼しい病室で何かを読むということはぜんぜん気持ちのいいことなのだ。今日はここから出なくていいや、と彼は言った。母は何か彼に尋ねた。いや、今日は夜がすごく涼しい日だから、と彼は答えた。母は駐車場を横切り、雨よけの狭い屋根の通路を歩いて、成果の棚になっている入口から自動ドアの向こうに入っていった。照明がたくさんついてその辺りはきらきらしていた。エンジンを止めた車内で彼は新しくここへ入ってくる車や、買ったばかりの袋をさげて逆向きに歩いていく人かげをみていた。彼はそのとき何かを思い出していた。その思い出はいつでも頭の中に存在しているのに、普段はまったくないようなものとして忘れさられていて、あるとき、ある状態、ある話題、ある声、ある風景、ある匂い、そんなものだけが突然に呼び起こすことのできる、不思議に生々しく、また白昼夢のようにその意味するところを自分自身で受けとめ切ることのできないような記憶だった。彼は椅子に腰かけていた。それは公園のベンチだった。深い夜で、公園を囲む家々は明かりのついているのも消えているのもあったが、みんなひとしく眠りこんでいるように感じられた。そこで一組の家族が暗さに沈みこんだ青いバケツをひとつ立てて、花火をやっていた。花火はセットになって袋につめられたもので今ビニールのひらかれたそれはわずかな風を受けてひらひらと揺れていた。それは高いところにある白いトイレの前の電灯によってわかるのだった。その家族は一体どんなひとたちなのかわからなかった。誰の顔もはっきりとはみえず、まるでどんな家族でもよさそうだった。しかしそのすべてが自分にとても関係の深いものに思われた。そこにいる父は、子どもは、いずれも自分自身であるように思えた。ある瞬間につよい光が照らせば、そこにはそのときどきの年代の、自分自身の横顔が映し出されるのではないのか。あるいはそこにいる母も、また別の子も、子も、子も……。歓声が上がり、小さな子が輪のまわりを走りまわっていた。

 彼らのしている花火とは別に、まったく違う花火が背後で高く打ち上がって、彼は振り向いて裏手の神社の木々の上空に上がったそれを眺めた。どこかで知らない夏祭りが行われているらしかった。その花火はみたこともない、ステンドグラスのような色彩で、目によってそんなものをみることができるとは信じられないほど、恐いような深い色味で光っていた。頭痛がした。その花火は一つの像として頭の中にいつまでも残り、火花が消えてぱりぱりと溶けていく音とともに失われることはなかった。これはどういうことだろう、と彼は思った。帰り道の交差点で停車するといろいろの車のテールランプだとか、道を照らす明かりが光っていた。それが不思議に恐ろしく感じていることを彼は感じていなかった。そして新しくはじまった連載漫画や打ち切りになったものなどについていろいろのことを話したり、母が昔に読んでいた漫画の話を聞いたりしていた。