2016.5.30

廊下をまっすぐ歩いていくのを教室から出て見ている。左の方へ彼はふっと折れる。見えなくなる。彼が感化院に入ったことがわかる。感化院? 感化院に入ってよかったと思う。

 やっぱり彼は錯乱していたのだ。さっきまでの態度は錯乱だったんだな。廊下を出たところでえりに言う。彼女の方がさっきまでのあれが錯乱だったのだとはっきりわかっていたようで、そういう目でじっとうなづいている。Kの方はおかしいと思っていたが、まだ正気を失っているというほどではないと思っていた面もある。というか、大なり小なり、K自身がそういう脈絡を欠いた、拡散する話をしているのではないかと不安もあった。

 電車の青いシートの上で二人は話す。でもミランダは彼のことを好きだとみんなの前で言ってたじゃないか、とKは言う。ミランダの性格からすると、そんなふうに愛情について言い切ることは、よっぽど確かなことなのかもしれないと思っていた。そこだよ、とえりは言う。本当のことに確信がないからこそみんなの前で主張したがる。Kはそう聞いて納得する。確かにそんな態度もミランダらしいとも思えた。だが、えりはミランダを自分へ引き寄せて考えている、とも思った。しかし洞察力の点ではKの方がぼんやりしていた。

 文化祭のパンフレットの絵は校内で公募されたもので、小学生が漫画を見て描いたような、下手くそな目の大きい制服の男女が座っていた。頭も大きくて、巨大な黒目がきらきらしていた。女の方の髪は雨みたいな一方向への鉛筆の線で描かれていた。背景は空の下で、高架道路がまがっていくところだった。なぜ高架道路なのか。それがとても目立っていた。そのイラストを一生懸命描いた女の子のことを考えた。

 彼はがっしりした体型で、顔は女性的に整っていた。髪がながくて、額に分け目があった。髪はさらさらしていて金髪だった。彼は白人で可愛らしかった。青い目で、じっと見据えているとき切なげだった。迷いや繊細さ、傷つきやすさがその目に現れていた。カンガルーみたいだと思った。なぜカンガルーなのか。すらっとしたところがカンガルーに似ていたからかもしれない。

 夕日の射すがらんとした教室で、Kは彼に追い回された。決して走りはしなかった。あみだくじのような動きで机と机の間を縫って行ったりきたりした。暴力的ではなかったが執拗だった。両腕を広げて身ぶり手ぶりで彼は主張した。主にミランダへの気持ちについて彼は言っていた。少なくとも言っていたのだろうとは思う。彼の錯乱は彼の確信を崩す方向へ働いていた。だから言い訳めいたところもあり、ミランダを愛する気持ちが言葉の中で崩れたり、組み立て直されたりしていた。Kはだからそれがあながち錯乱だとも思わなかった。目はとても真剣だった。彼は真面目に悩んでいた。その真剣さをKにわかってほしかったのかもしれなかった。彼が廊下を突っ切っていって感化院に入ったのにはほっとした。だが夕日の中に立つ彼の大きい姿が頭の中で相変わらず立っていた。

 

斜めに降る雪が街灯に照らされている。雪の流れはゆっくりしていて、すでに薄くだけアスファルトの地面に積もりかけている。Kたちは住宅街の角を折れてここを通りかかった。たまたま、こんなに広くひらけて、ドラマチックになっている場所を発見した。真っ先に立ち止まった小林さんはポンチョみたいなのをきた両腕を広げて、街灯を見上げていた。きれー、と口で言う前に顔がもうそう言っていた。街灯はとても高くて彼らが小さな生き物になったように思うくらいだった。見上げると雪によって示された空間の広がりを感じた。光は均質な広がりではなかった。ちょうど海水の温度に場所によってばらつきがあるように、光の広がり方にもばらつきがあった。照らされた雪の形づくる輪郭は生き物のようだった。

 

メインの仕事から外れてよかったね、と事務職の女が言ってきた。ミランダは青いカーペットの部屋のソファにいた。ミランダは仕事から外れたくて外れたわけではなかった。いや、5ヶ月の間は実際に自分から外れたいと思った。でもその理由も自分自身に発するのではなかった。5ヶ月間だけなの、と言おうと思ったが言わなかった。事務の女は本当にミランダを祝っているようにも見えたし、馬鹿にしているようにも聞こえた。どっちにしても納得がいかないから同じだと思った。ポスターを見上げるとそれは農業に関するものだった。新幹線が右から左に走っている。緑の畑があって、そこで大根やじゃがいもなどが育てられる。

2016.5.25

 

天井だけ暗く青く光るゲームコーナーがガラス越しにみえる。アームは右から左に動いていく。マシンの中は明るいからそれは夜空のUFOのように浮き上がっている。お金は入っていない。勝手に動いているだけだ。ガラスの向こうに二人の男の子がいて覗いている。乗り出してもたれかかるようにしている彼らの顔は少し歪んでいる。ガラスそのものがカーブを描いているので歪んでいる。片方はアームの動きをみつめている。右の片方は積まれた景品をみている。二人とも首や肩から下はみえない。もたれている腕はみえる。髪も上へしたがって溶けていく。時々天井の照明が雷のように(実際に雷を模して)白くなり、長い線を描いたり点滅したりする。それでも辺りは暗い。二人の奥には暗くてみえにくい人かげがある。スロットが光っている。スロットの文字盤が光っているのが遠い埠頭にみえる灯台の明かりのように浮かんでいる。そんなふうに無数の光がある。レースゲームの画面の斜めに途切れて走りつづける。それは長い長い川の流れのようでもある。

 少年は右からささやかれる。音がうるさすぎるせいかよく聞こえない。耳を近づけてみる。口を近づけてくる。息がかかる。その息はくさい。細い腕が彼の向こう側の肩を今は抱きかかえている。

 銃声のようにふいに声がする。誰かが叫んで彼のことを呼んだみたいだ。本当に呼ばれたのかどうかわからない。音の輪郭がぼやけて消えていった。青い天井がまた明滅している。いろんな人がいるのに誰のこともみえない。きっとここは暗すぎる、と思う。誰かがレースゲームのブースの中にいて、とても強く何かを蹴っている。

「行こう」と少年は言う。何か大きくて重い石の輪のようなものがこれから激しい速度でまわる予兆を含みながら、今おずおずと動きはじめている、というふうに感じていた。彼を抱いていた手はもう外れていた。①②と書かれた赤いボタンと、同じ色の操作用の棒が、白いにごった光に照らされている。目を上げると、弟はガラスの向こう側でこっちに向かってふざけていた。

・その昔靴を泥だらけにしながらエアガンの打ち合いをしていた広場は、一棟の背の高い塔を除いてその向こうにみえるものは何もなかった。どんよりした空だけみえた。今にも雨が降りそうに空気が湿気ている。その塔は赤かった。くすんだ赤い色だった。その塔の赤い非常階段みたいな階段を上っていくと、てっぺんから巨大な水鉄砲みたいなものが打てるようになっていた。そこから地上の子どもたちに向けて放水するとびしゃびしゃになって遊んでいた。そんな光景をよく思い出したのだけれど、エアガンの打ち合いをするころには塔の水鉄砲は壊れたか、あるいはもう使えないことになっていた。

 

・ドーム状の屋根の下が何の施設になっているのか知らなかった。白いふちのガラスのドアには鍵がかかっていて、全体にブラインドが降りていた。座席とテーブルがあって、整然と並ぶよりは雑然としていたようにみえた。外が真昼でも中は暗くて静かで、涼しそうだとも、ほこりっぽそうだとも思った。その建物をめぐって真っ赤な縄が張りめぐらされていた。後方から階段で登れるようになっていて、そこからは手足でよじ登るのだった。縄は固くてざらざらして、風雨に晒されているので少しずつ色あせていた。登るとまるで亀の甲羅の上にいるみたいだと思った。でもその建物は亀ではない生き物を模して作られていた。それが何の生き物かはわからなかった。ずっと見上げるほど高い首がそびえていて、頭部の両側から目玉が飛び出していた。恐竜のようにもみえたし、きりんみたいでもあった。でもそれは水鳥なのだと後になってわかった。

 

・おじさんが新興宗教に入っていて、今でも色々と買っているだろうけれど、昔も物を買わされるというか、買うときがあって、祖父母のお金を使って買った絵が一枚、玄関から階段を登っていった突き当りのところにかけてある。階段はそこでL字に折れ曲がってまたちょっと登り、二階にいたるのだがその全体が吹き抜けになっている。だから絵は壁のかなり高いところにかかっていて、踊り場というには狭いその曲がり角にはしごでも置いたのでなければ、かけられないようなところにある。昔からその絵はあって、虹のかかった空の下の小さな家から、カラフルな服を着たインディアンのような少年が手前に向かって走って逃げてきている絵だった。よい絵だと思ったわけではないかもしれないが、なんだか印象に残ってみていた。背景は空の水色と地面の白で2分割されている。白い地面には少年の影が小さく落ちている。あと、黒い点で表現されたいくつかの足跡。この絵に祖母が文句を言っているのを聞いたのはかなり後になってのことで驚いたものだ。高く買わされた絵で、みる度ににくしみを感じる。「でも、いい絵でもある」と二十四の私が言ってみた。「確かにいい絵でもあるかもしれない」と言って祖母は感心している。だからきっと隠さずに憎しみながらもかけておく気になったのだろう。三歳より小さなころから私はこの絵を見上げていた。その時私は階段の曲がり角で壁に手をついて、鼻くそをほじって食べたりしていた。

断片2

 夕暮れに花火をして、その四方八方に燃える光、暗闇を伝わってくる焦げついた匂いが、はっきりと鼻孔をとらえる、ひとりでその十年もあとの明け方、椅子に腰かけて今朝の夢を思い出せないでいるとき。

 

 盗まれたその自転車で彼は田んぼの広がる向こうに市民プールのみえる畦道を夏の昼間に走り、病室で胃ろうにつながれた祖父のことを見舞っていた。話すことはあきらめてしまっていた、苛立つのだ、起き上がらない上体を起き上らせようと力をこめ、肩のあたりのパジャマの布が少しだけ動く、目を見ひらいて痩せこけた口から何かを言おうとする、喉をかすめていく呼気の音だけが長くつづき、言葉としての音を結びはじめたいくつかの単語さえ聞きとることはできず、何、何、何を言ってるの、そう尋ねると彼のことが祖母や介護士ではないとそのときはじめて気がついたかのように、怯えとも後悔ともつかない色が表情に浮かんで、祖父は試みていたことをあきらめる。窓辺からきた道の田んぼを眺めてその日出たばかりの週刊少年ジャンプを読んでいた。発売日を選ぶようにして病室にきていたこともある。読み終えてしまうと後からきた祖母に小銭をもらって、また同じ田んぼと白んだ空、吹き飛ばされた紙のように浮かんでいる黒い鳥のかげ、その風景をとりかこんだ車道や街を休憩室で買ったジュースを飲みながら眺めていた。そんなに気をつかわんでもええよ、と言われたその祖母の言葉が何となく脳裏を漂っていて、別に気をつかってるわけじゃないんだけどね、と夕暮れどきの車内でスーパーへ向かう助手席で彼は母に言う。ちょっと出かけていって涼しい病室で何かを読むということはぜんぜん気持ちのいいことなのだ。ここで待ってるよと彼は言った。母は何か彼に尋ねた。いや、今日は夜がすごく涼しい日だから、と彼は答えた。母は駐車場を横切り、雨よけの狭い屋根の通路を歩いて、成果の棚になっている入口から自動ドアの向こうに入っていった。照明がたくさんついてその辺りはきらきらしていた。エンジンを止めた車内で彼は新しくここへ入ってくる車や、買ったばかりの袋をさげて逆向きに歩いていく人かげをみていた。彼はそのとき何かを思い出していた。その思い出はいつでも頭の中に存在しているのに、普段はまったくないようなものとして忘れさられていて、あるとき、ある状態、ある話題、ある声、ある風景、ある匂い、そんなものだけが突然に呼び起こすことのできる、不思議に生々しく、また白昼夢のようにその意味するところを自分自身で受けとめ切ることのできないような記憶だった。彼は椅子に腰かけていた。それは公園のベンチだった。深い夜で、公園を囲む家々は明かりのついているのも消えているのもあったが、みんなひとしく眠りこんでいるように感じられた。そこで一組の家族が暗さに沈みこんだ青いバケツをひとつ立てて、花火をやっていた。花火はセットになって袋につめられたもので今ビニールのひらかれたそれはわずかな風を受けてひらひらと揺れていた。それは高いところにある白いトイレの前の電灯によってわかるのだった。その家族は一体どんなひとたちなのかわからなかった。誰の顔もはっきりとはみえず、まるでどんな家族でもよさそうだった。しかしそのすべてが自分にとても関係の深いものに思われた。そこにいる父は、子どもは、いずれも自分自身であるように思えた。ある瞬間につよい光が照らせば、そこにはそのときどきの年代の、自分自身の横顔が映し出されるのではないのか。あるいはそこにいる母も、また別の子も、子も、子も……。歓声が上がり、小さな子が輪のまわりを走りまわっていた。

 彼らのしている花火とは別に、まったく違う花火が背後で高く打ち上がって、彼は振り向いて裏手の神社の木々の上空に上がったそれを眺めた。どこかで知らない夏祭りが行われているらしかった。その花火はみたこともない、ステンドグラスのような色彩で、目によってそんなものをみることができるとは信じられないほど、恐いような深い色味で光っていた。頭痛がした。その花火は一つの像として頭の中にいつまでも残り、火花が消えてぱりぱりと溶けていく音とともに失われることはなかった。これはどういうことだろう、と彼は思った。帰り道の交差点で停車するといろいろの車のテールランプだとか、道を照らす明かりが光っていた。それが不思議に恐ろしく感じていることを彼は感じていなかった。そして新しくはじまった連載漫画や打ち切りになったものなどについていろいろのことを話したり、母が昔に読んでいた漫画の話を聞いたりしていた。

断片

 遅い時間まで二人には話すことがいつまでも尽きなかったけれど、何の話をしたか聞かれても答えようがなかった。ただ没頭してタイヤのブランコの上で話していると、夕暮れの気配さえ空から消えたことに気づかなかった。いや、気づかなかったのではなくて、夜が深くなって周りの家から静かさが沁みだすようなのを、足を投げ出して聞いていたのだった。

 境くんの家に行ったら境くんは家でご飯を食べてて、あなたはどこにいるか分からないから捜索願を出そうと思ってたのだと、ブランコのチェーンをつかんで立った母が言った。白い灯がじりじりと空で鳴っていた。大げさだな、とわたしは笑った。また学校でね、と増川くんは自転車に乗って消えた。

 

 この道をまっすぐに行けば東京へつくと知らなかったから、知ると四、五時間走らせてあの歩道橋のたもとでぼんやり待っている自分を想像した。地下鉄から彼は昇ってくると意外そうな顔をして、部屋でコーヒーをいれてくれた。

 

 蛙は蠅を食べるから、直接捕食できるかと思ってベランダへ連れてきたのだが、鉢植えの土の上でジャンプすると、柵の向こうへ落ちて行った。ペチャっと小さく音がして、覗くと、まだ生きて跳ねていた。猫がそっちへ走り寄っていった。

 

 本を詰めた三箱を順々に郵便局へ持っていった。一コ800円と少しとられた。郵送料金のシステムを聞くとふるえる手で表を指しながら男性の局員が教えてくれた。うしろのもう一人は眼がとてもきらきらしていて、お客に話しかけられるだけで嬉しいみたいだった。晴れた日の道をぶらぶらして、通りすぎていた近所の肉屋にはじめて入ると、200gの鶏モモ肉を買った。屠殺場だとか養鶏場のような匂い、と思ったが、そうした場所で本当に匂いを嗅いだ記憶はない。鶏の開かれているのを包丁で二度切って量りにのせた。お金を払って釣銭はカゴからとる仕組みだった。主人は年とっていて、作業の間ずっと眠っているかのようだった。

 

 幼稚園にいるといつも上空でぶーんとヘリコプターが飛んでいて、家に帰ってからも小学校に上がってからもヘリはいた。何かについて注意を喚起しているのだが、ある日昼寝から目覚めると、すずしい風の吹いてくるベランダの網戸ごしに、またヘリが聞こえた。「青いたまご。青いたまご」と繰り返しているように聞こえた。あっ、そうか、タオルを忘れないようにしなくちゃ、と気づいて、暗い洗面所で青いタオルをバッグにつめた。明日はプールがある日だったのだ。鍵が落ちる音ががちゃんとして誰かが帰ってきた。ぼくは立って鏡をみた。特に理由もなく。

 

 マグロのさしみが好きになって、マグロのさしみばかり食べたがったが、あるとき野球中継が好きになると、野球中継ばかり見たがった。それならと言って父がもらってきた券で球場に行って、ほらあれが気に入ってるピンクのリストバンドの選手だ、と言った。その選手の名前は何とかと言った。ビールとポテトを父が買っている間に迷子になって、迷子になったら動かずじっとしてると見つかりやすいよと教えられていたのを思い出して、昇り降りするエスカレーターを見ながら待っていた。しばらくするとみつけ出されて、動かずにいたからえらいと言われて嬉しかった。試合が終わると駅への道はざわざわごちゃごちゃしていた。勝ったし新しい外国人選手が活躍したからよかったとみんなが思っていた。駅のプラスチックの柵の上から夜空がみえた。月がきれいだな、と思ったら電車が入ってきた。

 

 喫茶店とエレベーターと家への通りと、三か所で「シッソウ」という言葉を今日は聞いた気がした。ネットで簡単に調べたらそんなニュースは出ていなかった。窓の向こうに誰かが立ってどんどんと叩いているのを気のせいで聞いてびっくりした。インターフォンが鳴って、近くで大火事が起こってるから見に行こう、と隣人の宇田さんが来ることを、思い浮かべて料理していた。そんなことも実際には起こらなかった。このレシピだと野菜炒めが驚くほどおいしくできた。

 

「自動車でやってきたあの黒い服の男を見たか」とわたしはありもしないことを言った。「すいかわりのときに眼隠しをしたら、うしろから君をつかまえるぞ」

 

 幼稚園児の二人はとても仲がよくて、結婚することになっていたし、昼前の散歩では手をつないで、手すりや標識の支柱が二人の間に差しかかっても、決して握った手を離そうとはしなかった。

 

 親知らずを抜いた昼すぎに中華街の店へ行って、奥の薄暗いテーブルで食事をした。片側しか抜いてなくて次の日は空けておいてなんて脅されてたけどあまり今は痛くなくて、だから遊びにくることもできていた。顎がすっと細くなってるよね、片方外からはっきりみえる、と彼がちょっと触った。テーブルは空いていてマイナーなあまりおいしくない店だったが、両側抜いたら顎のラインがもっとしゅっとなるねという話になっていた。山下公園で船と鳩をみて、そのあと喫茶店でクッキーが混ざったアイスを食べた。夜は焼き肉へいった。

忘れていたのに思い出したようなこと

 

家族旅行で誰も予定していなかった変なバス停で待つことになったこと。これは大雨になるぞと父が言って屋根があってよかったねと話していたのに降らなかったこと。でもテレビで今日は記録的な豪雨でしたとホテルの部屋で見たこと。

 

 あ、校庭に白い犬が忍び込んでるなと思って余所見した後、気のせいのようにいなくなっていたこと。そして○○さんお留守になっていますかと別の子が前の席で注意されたこと。

 

 暗い湿った林に面した体育館裏の扉に二つ星や四つ星や五つ星や色々なテントウムシがいたこと。見上げるとざわざわ言う高い木立からいつも空が白っぽかったこと。

 

 引っ越しを手伝いに行ったいとこの家で夜大人たちがすき焼きを準備しているとき、荷解きされていない暗い二階の部屋へ忍び込んだこと。窓から見下ろすと二階建てにいるはずが遥かに低いところに地面があって、オレンジ色の眩しい光の下で軽トラックから何かを降ろす相談を大人たちがしていたこと。父も母もそこにいて何かイルカみたいな生き物でそれはあったこと。降りて行くとこんな部屋はなかっただろうと言う白々した蛍光灯の応接間で、年下のいとこたちが集まって変な風にけん玉で遊んでいたこと。すき焼きはなかなか完成せずに九時頃まで呼び声がかからなかったこと。

 

 丁度こんなスクリーンがあって、とAが言ってその続きを口にしなかった。明かりを消して夜通し話していたのと同じ悩み事をBがまたはじめたからで、もしかすると本当にこのホテルだったのかもしれなかった。子供によって差がある、つまり次男坊なら物心ついた頃から旅行で出かけた場所を大体知っていたし車に乗りながら標札を話題にしていた。Aは高校生になっても自分がどこへ向かっているのかほとんど関心を持たなかった。頭の中に地図を持ってないからどこへ行ってもワープしたみたいに感じるので面白くないと、父や母に言われたことと自分の考えをまぜこぜにして友達に話していた。だから土地としてどこへきたのかもわからないし、こうしていま赤い絨毯と真鍮と鏡張りのカウンターがあるレストランへ入ってきたときすでにきたことがあるような気がしたから実際にそうなのかもしれない。スクリーンは音が切ってあって今朝は画面も切れている。そこでハリウッド映画だったらしいが髭面のカウボーイが黒い馬に乗って、夕暮れの高層ビルの上層階の窓を突き破って飛び出してくるのが見えて、心を惹かれたのだった。何の映画かわからなかったし、そんなものが気になっていると父や母に言ったこともない。自分でレンタルDVDを探してみたこともない。映画は実在するだろう。現物を見たら記憶とは違っているかもしれない。だったらどうという話でもない。馬、カウボーイ、ビルのガラスが割れる、夕暮れ、目線を下げると暗い雪の夜。自分の盆を持ってBが席に戻ってくる頃にはAはその短い追想をすっかり忘れた。Aが馬の映像を見た夜は五歳の弟が激しい熱を出した夜で、夜中の客室には全部で五人の家族と医者、看護婦、二人の従業員がいて、ベッドを囲っていた。酔ったみたいにざわざわしているな、と眠い目で見ながらAは思っていた。