断片

 遅い時間まで二人には話すことがいつまでも尽きなかったけれど、何の話をしたか聞かれても答えようがなかった。ただ没頭してタイヤのブランコの上で話していると、夕暮れの気配さえ空から消えたことに気づかなかった。いや、気づかなかったのではなくて、夜が深くなって周りの家から静かさが沁みだすようなのを、足を投げ出して聞いていたのだった。

 境くんの家に行ったら境くんは家でご飯を食べてて、あなたはどこにいるか分からないから捜索願を出そうと思ってたのだと、ブランコのチェーンをつかんで立った母が言った。白い灯がじりじりと空で鳴っていた。大げさだな、とわたしは笑った。また学校でね、と増川くんは自転車に乗って消えた。

 

 この道をまっすぐに行けば東京へつくと知らなかったから、知ると四、五時間走らせてあの歩道橋のたもとでぼんやり待っている自分を想像した。地下鉄から彼は昇ってくると意外そうな顔をして、部屋でコーヒーをいれてくれた。

 

 蛙は蠅を食べるから、直接捕食できるかと思ってベランダへ連れてきたのだが、鉢植えの土の上でジャンプすると、柵の向こうへ落ちて行った。ペチャっと小さく音がして、覗くと、まだ生きて跳ねていた。猫がそっちへ走り寄っていった。

 

 本を詰めた三箱を順々に郵便局へ持っていった。一コ800円と少しとられた。郵送料金のシステムを聞くとふるえる手で表を指しながら男性の局員が教えてくれた。うしろのもう一人は眼がとてもきらきらしていて、お客に話しかけられるだけで嬉しいみたいだった。晴れた日の道をぶらぶらして、通りすぎていた近所の肉屋にはじめて入ると、200gの鶏モモ肉を買った。屠殺場だとか養鶏場のような匂い、と思ったが、そうした場所で本当に匂いを嗅いだ記憶はない。鶏の開かれているのを包丁で二度切って量りにのせた。お金を払って釣銭はカゴからとる仕組みだった。主人は年とっていて、作業の間ずっと眠っているかのようだった。

 

 幼稚園にいるといつも上空でぶーんとヘリコプターが飛んでいて、家に帰ってからも小学校に上がってからもヘリはいた。何かについて注意を喚起しているのだが、ある日昼寝から目覚めると、すずしい風の吹いてくるベランダの網戸ごしに、またヘリが聞こえた。「青いたまご。青いたまご」と繰り返しているように聞こえた。あっ、そうか、タオルを忘れないようにしなくちゃ、と気づいて、暗い洗面所で青いタオルをバッグにつめた。明日はプールがある日だったのだ。鍵が落ちる音ががちゃんとして誰かが帰ってきた。ぼくは立って鏡をみた。特に理由もなく。

 

 マグロのさしみが好きになって、マグロのさしみばかり食べたがったが、あるとき野球中継が好きになると、野球中継ばかり見たがった。それならと言って父がもらってきた券で球場に行って、ほらあれが気に入ってるピンクのリストバンドの選手だ、と言った。その選手の名前は何とかと言った。ビールとポテトを父が買っている間に迷子になって、迷子になったら動かずじっとしてると見つかりやすいよと教えられていたのを思い出して、昇り降りするエスカレーターを見ながら待っていた。しばらくするとみつけ出されて、動かずにいたからえらいと言われて嬉しかった。試合が終わると駅への道はざわざわごちゃごちゃしていた。勝ったし新しい外国人選手が活躍したからよかったとみんなが思っていた。駅のプラスチックの柵の上から夜空がみえた。月がきれいだな、と思ったら電車が入ってきた。

 

 喫茶店とエレベーターと家への通りと、三か所で「シッソウ」という言葉を今日は聞いた気がした。ネットで簡単に調べたらそんなニュースは出ていなかった。窓の向こうに誰かが立ってどんどんと叩いているのを気のせいで聞いてびっくりした。インターフォンが鳴って、近くで大火事が起こってるから見に行こう、と隣人の宇田さんが来ることを、思い浮かべて料理していた。そんなことも実際には起こらなかった。このレシピだと野菜炒めが驚くほどおいしくできた。

 

「自動車でやってきたあの黒い服の男を見たか」とわたしはありもしないことを言った。「すいかわりのときに眼隠しをしたら、うしろから君をつかまえるぞ」

 

 幼稚園児の二人はとても仲がよくて、結婚することになっていたし、昼前の散歩では手をつないで、手すりや標識の支柱が二人の間に差しかかっても、決して握った手を離そうとはしなかった。

 

 親知らずを抜いた昼すぎに中華街の店へ行って、奥の薄暗いテーブルで食事をした。片側しか抜いてなくて次の日は空けておいてなんて脅されてたけどあまり今は痛くなくて、だから遊びにくることもできていた。顎がすっと細くなってるよね、片方外からはっきりみえる、と彼がちょっと触った。テーブルは空いていてマイナーなあまりおいしくない店だったが、両側抜いたら顎のラインがもっとしゅっとなるねという話になっていた。山下公園で船と鳩をみて、そのあと喫茶店でクッキーが混ざったアイスを食べた。夜は焼き肉へいった。

忘れていたのに思い出したようなこと

 

家族旅行で誰も予定していなかった変なバス停で待つことになったこと。これは大雨になるぞと父が言って屋根があってよかったねと話していたのに降らなかったこと。でもテレビで今日は記録的な豪雨でしたとホテルの部屋で見たこと。

 

 あ、校庭に白い犬が忍び込んでるなと思って余所見した後、気のせいのようにいなくなっていたこと。そして○○さんお留守になっていますかと別の子が前の席で注意されたこと。

 

 暗い湿った林に面した体育館裏の扉に二つ星や四つ星や五つ星や色々なテントウムシがいたこと。見上げるとざわざわ言う高い木立からいつも空が白っぽかったこと。

 

 引っ越しを手伝いに行ったいとこの家で夜大人たちがすき焼きを準備しているとき、荷解きされていない暗い二階の部屋へ忍び込んだこと。窓から見下ろすと二階建てにいるはずが遥かに低いところに地面があって、オレンジ色の眩しい光の下で軽トラックから何かを降ろす相談を大人たちがしていたこと。父も母もそこにいて何かイルカみたいな生き物でそれはあったこと。降りて行くとこんな部屋はなかっただろうと言う白々した蛍光灯の応接間で、年下のいとこたちが集まって変な風にけん玉で遊んでいたこと。すき焼きはなかなか完成せずに九時頃まで呼び声がかからなかったこと。

 

 丁度こんなスクリーンがあって、とAが言ってその続きを口にしなかった。明かりを消して夜通し話していたのと同じ悩み事をBがまたはじめたからで、もしかすると本当にこのホテルだったのかもしれなかった。子供によって差がある、つまり次男坊なら物心ついた頃から旅行で出かけた場所を大体知っていたし車に乗りながら標札を話題にしていた。Aは高校生になっても自分がどこへ向かっているのかほとんど関心を持たなかった。頭の中に地図を持ってないからどこへ行ってもワープしたみたいに感じるので面白くないと、父や母に言われたことと自分の考えをまぜこぜにして友達に話していた。だから土地としてどこへきたのかもわからないし、こうしていま赤い絨毯と真鍮と鏡張りのカウンターがあるレストランへ入ってきたときすでにきたことがあるような気がしたから実際にそうなのかもしれない。スクリーンは音が切ってあって今朝は画面も切れている。そこでハリウッド映画だったらしいが髭面のカウボーイが黒い馬に乗って、夕暮れの高層ビルの上層階の窓を突き破って飛び出してくるのが見えて、心を惹かれたのだった。何の映画かわからなかったし、そんなものが気になっていると父や母に言ったこともない。自分でレンタルDVDを探してみたこともない。映画は実在するだろう。現物を見たら記憶とは違っているかもしれない。だったらどうという話でもない。馬、カウボーイ、ビルのガラスが割れる、夕暮れ、目線を下げると暗い雪の夜。自分の盆を持ってBが席に戻ってくる頃にはAはその短い追想をすっかり忘れた。Aが馬の映像を見た夜は五歳の弟が激しい熱を出した夜で、夜中の客室には全部で五人の家族と医者、看護婦、二人の従業員がいて、ベッドを囲っていた。酔ったみたいにざわざわしているな、と眠い目で見ながらAは思っていた。

                                                                                                          

『盗まれた自転車』

 中学二年生の夏の夜、少年は自転車を盗まれる。そのことを彼はまだ知らない。マンション四階の二段ベッドで弟たちと寝息を立てている。不良集団の一人が八の字に蛇行してそのママチャリを漕いで走る。星の輝く河川敷に放り出され、散々に手を尽くして痛めつけられる。朝どんな気持ちかお前聞きに行く役な。見つかった時には昼間のきらきら輝く水の中にハンドルの片側を突き立てて倒れていた。数週間の後に警察署で話を聞かされたとき、彼の母はそんな情景を思い浮かべる。リムがぐちゃぐちゃに曲がっていますね。サドルもない。持ち去られてます。でも、その他は修復不可能ということはありません。部品を替えればまだ使えますよ。乗って帰ることも引いて帰ることもできないから、車のバックシートを畳んで積み込んだ。家族でスキーへ行く日のように。少年は昼下がりの居間で母からそう聞かされる。今頃は小暮自転車店で直されているのだ。強く蹴られたり岩に叩きつけられたりして曲がっているからアルミニウムのボディには傷が残る。少年はすでに新しい自転車を買い与えられていた。小学生の乗るマウンテンバイクタイプのじゃなくて、そろそろママチャリにしたいって国ちゃんも言いはじめたからお下がりにあげちゃうわね。次男坊は高校を卒業し、大学へ進んでから数日間もその自転車に乗っていた。少し酔って新しい友だちの運転で家に帰った夜、自転車は駅の駐輪場に置きっぱなしだった。数日後に徒歩で捜しに行ってみると、海のように自転車の寄り集まった中で、自分のを見つけ出すことはもうできなくなっていた。数分ほど探した後、あれはやっぱり盗まれる運命の自転車だったじゃないか、と彼は思った。そして明日からは思う通り原付で大学へいくことにしようと。家族のうちの誰もその自転車がなくなったことには気づかなかった。四人の子どもたちが全員家を出て、残りの二人暮しのために家の品々を母が検分し始めた、それから十年後の春の雨の日までは。

『後輩』

 

 何かの会みたいなものに出ている。

 S先輩がいて、口を利いていなかったが一日思いつめたような顔をしていると思っていた。

 会が引けて表の階段から降りていくとき、あんな悩ましそうなSさんに話しかける人がいないなんて、と思う。自分が話を聞いてあげるしかないと。

 そして話しかけると、わたしがそうするのを待っていたようにSさんは静かな頬笑みをみせて、われわれは石の階段に座る。

 Sさんはいつものようにとても論理的で、楽しそうに話す。話の展開が速すぎてわたしは全然ついて行けない。つい適当に相づちを打つことになってしまう。自分が馬鹿なのかと思う。でもよく聞いていると、Sさんの話では必要な内容までが欠けていて、落丁ばかりの本のように、集中しても何のことだかわからないのだった。

 悩みは恋人とのことらしく、Sさんがわたしの反対側へ顔を向けるとそこには若い法師がいた。彼とはすでに問題について話していたようで、頷き合い、ではこうして相談相手がいるならわざわざわたしが相手をする理由はないではないかと悲しくなった。恋人とは三カ月付き合っていた。Sさんの中ではとても長いと言う。それはとても短いですね、とわたしは言う。三カ月の付き合いの相手にそもそもそんな深く悩むことがあるのか。でもSさんの表情が真剣で輝いてみえ、こうした熱心な話しぶりや没頭した感じに魅かれる相手もいるだろうと思った。

 お前これからこれる、と言われた。ええ、たぶん……そうですね、用事はないと思いますけど。

 これからN津へ行く、とSさんは言った。なぜN津に行くのだろうとわたしは思った。彼はいつの間にかあの辺りに引っ越していたのかもしれない。いや、そうか、Sさんの恋人がそこに住んでいるのかもしれない。同じ大学だから。随分近くに住んでいるものだ。

 石の階段を降りると観光客の雑踏だった。山歩きの格好をした人々にわれわれは押し流された。

「この先の交差点で会うことになるから」

 とSさんが言って、どんどん先へ進んでいった。

 わたしは財布の入った鞄を忘れていたことを思い出して、消えていく彼の方へそう叫ぶと、引き返して石の階段を昇った。鞄は太い柱の際に置いたままになっていた。法師も元いたところに座っていて、昇ってくるわたしをじっと無言で見ていた。鞄の中身を確認すると法師の隣りに座って一息ついた。

 法師が指さす方を見ると、森の中心の禿げ渡った辺りで、何か黒いものが疾走していくのが見えた。石段を下った場所は観光客向けの通路になっており、そこから広大な森を見下ろすことのできるようになっていた。空はそこに蓋をするようにして薄曇りだった。

 その疾走するものは犬たちに追われながら森へ入り、そこからさらに少し昇って、柵の下にヘソのように開いた小さな穴目がけて飛び込んで行った。その上はお堂になっていた。

 わたしは駆け出して、それが上昇してくるのに間に合うように急いだ。その疾走するものはSさんなのだろうと思った。なぜかわからないが確信していた。

 土にボール状の穴が開いていた。やがて入浴剤が溶けるような音と勢いで、その丸い外壁が揺らぎはじめた。そして段々白いねずみや鳥の雛みたいなものがごちゃごちゃと行ったり来たりをはじめた。土から生まれて、土に入っていく。ねずみと鳥の高い擦れるような鳴き声がずっと聞こえた。周囲に見ている者は誰もいなかった。やがてきらきらと鮮やかな毛色のきつねが穴の真ん中から顔を出した。昇ってきたのだ。前脚も出ていた。

 きつねは美しい黄色い目と狭い瞳孔でわたしを見つめた。その深刻な様子はSさんそのものだと思った。

 堂の階段を下りていくと、檜の匂いがする狭い部屋に法師が座っていた。脚を投げ出した雑な座りぶりで、こうして見ると彼はわたしのことを後輩だと見なしているのだと思った。窓には障子があり、檻のような木の枠が掛けられていた。透かして入る陽ざしはとても繊細で、いかにも昼の日陰らしかった。床が四隅の一方へ向けてかなり強く傾いていて、ずり落ちないように注意しながら法師のそばへ腰かけた。

 よい後輩になれるかもしれなかったけれど、途中から実は疎遠になっていたのだ、とわたしは話した。確かに彼はわたしに目をかけてくれていたけど、彼のそばにいると実際は少ししんどかったのだ。向こうが目をかけてくれるのに、あまり相性が合わないことってよくあるでしょう。いや、そうではなくて、本当は目をかけてくれているということもなくて、自分だけが重荷に思っていたのかもしれないけど、とにかく後になっても僕は気にしていましたよ。時々思い出すように気に掛けるというよりは、何か大きなものの磁場によって、その周囲の一つ一つが、一瞬ごとに、少しずつ、ごくわずかな誤差みたいに、引力を受けるような仕方で。会うことは、とても少なかったですけど。それで、お互いのことは忘れてしまったのだ。だから、今日こうして話すことになった巡り合わせは不思議だし、どうしてだろうと思いますよ。

「そうですか」

 とだけ法師は言って、じっとわたしの目を見た。話しながら、この人が言うことに少しの合意も見せず、ただ押し黙って目を見て聞いているので、それは否認の証なのではないかと焦って、ふいに何度も言いまわしを変えてしまっていた。だから意図せざることを意図せざる仕方で話してしまい、自分が何を言っているのかもよくわからなかった。法師はわたしの言葉を決意と受けとったように、立ち上がり、奥の木戸を開けて、裏の駐車場へわたしを誘った。

 運転中は何度も怒鳴られた。免許を取ったきりで不慣れな運転だったのだ。足元に黒い袋みたいなものが落ちていて、始めにはそれに気づかなかった。袋に右足が固定されたせいで、もがいてももがいても、ブレーキを踏むことができずに車が加速した。

「馬鹿野郎。小野大野だと言っている!」

 小野大野とは一番左寄りの妙に狭い車線がそこへ向かっている地名だった。先行車に何度も激突しそうになりながらも、何とかわたしは黒い袋を脱ぎ棄てることに成功した。そして、われわれは小野大野へ向かった。