小島信夫の感想

わかりにくく立体的な文章は、現実の道に喩えられる。ある道を行くときに、その道中に存在する風物は、現実世界に、(それが意味するところは曖昧だが)全的にそこにある。しかし、そこを実際に歩いていく時には、その道は特定の時間に、特定の視座から、特定の気分によって眺められている。つまり、行きにみている道と、帰りにみている道とは、同じ道なのだが、全く違う道でもある。一度目にそこを通るよりも、二度目に通ったときのほうが、その道はよく分かる。しかし、本当は一度目のときの方がよく分かっている場合もある。なぜなら、二度目三度目には僕たちはそれに慣れてしまい、はじめは何が見えていなかったのか、ということも分からなくなるからだ。現実とは一度目には決して全貌が分からないものであり、逆に、二度目三度目には見失われてしまうものである。こういうことが現実的なのだろう。だから、あまりにも説明的にみせてしまう文章には、その点の錯誤がある。それは後からの反省によって、本当は見通しの悪い世界を、俯瞰可能な平面へと置き直してしまう。そのように語れば、現実に接するときの人間の手触りをないものにしてしまうだろう。これは思考についても同様で、しかも比喩としてそうなのではなく、本当にそういうものなのだ。見えてしまっていることの錯誤に気づき、あえて見通しを失うことの訓練を積む。そういう文章修行があるのかも知れない。

雪女

いや、うーん。な、る、ほどな。まあそんなふうに、全体的にしか論じられない人はいますからね…、でも、いや、そうか? 別の角度から考えたら、むしろ分かるかもしれない。それってつまり、例えばこういう山があるとして、そこに何人登って、何人降りてくるか、みたいな話ですよね、小学生のころあった足し算引き算みたいな。いや、僕は数学はあまり得意ではなかったですけど、でも、小学校の算数くらいは…。だから100人山に登ったら、99人は降りてくるわけで、じゃ、残りの1人はどこに行ったんだ?と、多分、この人が論じているのは、こういう余りのことだと思うんですよね。これってでも、そうだな、うーん、僕はちょっとわっからないところがあるような気がするな。何というか、ちょっと、見てる角度が違うんじゃないかと思うし、あまり一般的な関心に沿ってるとは言えないですよね。僕だったら、勝手に凍え死ぬなりなんなりしてもいいと思うし、仮にそこでどんな野蛮なことが行われていたとしても、それって結局作り話の中の話でしょ?って当然なってくると思うし……。いや、そうなんですよ、そこがファンタジーだったら面白いと思うな。そういう、エロティックなファンタジー。だから、そういう雪山で、雪女と遭遇して……みたいな。これは寒い、いや、そう、文字通りで寒い展開だな…。でも古典的でいいじゃないですか。100-99=1。これは1人の人間というものの定義を変えますよね。1人だと思っていたら、その影にいなくなった99人がいるんだから。そして、そこで出会う雪女とのファンタジー。これはぜひドラマティックなものじゃなきゃいけないな。そう、絶対。まあ、でも、そう考えていくと……、なるほど。何だか僕もわかってきたような気がする。

天井を眺めながら

私ね、昔みた映画ですごく印象に残っているのがあって。でも、子供の頃にみたのやつだから、あまり覚えてなくて、それに、旅行先のホテルでみたんだと思うんだけど、だから、タイトルとかもわからないのね。覚えてる記憶も断片的で、なんか夕日に沈んでく街が映るの。たぶん高いビルみたいなところから眺めてるんじゃないかな。うん、日本じゃない。あと、なんか白い色とか赤い色とかが映って……、えっ(笑)、いや、そうだよね、すごくめちゃくちゃな記憶だってわかってるんだけどさ、いや、ね、ねえ、ちょっとやめてよ……、わかる? すごく変な角度から人とかを映しててさ、すごく、こんな風にして歩けるんだな、人って、っていう角度で男の人が歩いてたりしてさ。それでまた赤い色とか青い色とかがあって、それと、ひまわり畑とか……、あ、そうそう、いや、そうかもね、前、一緒にみたもんね、ゴッドファーザー、あ、じゃあ、絶対それじゃん(笑)、で、何話してるかわからないんだけどさ、みんな暗くなりかけたところで、バーベキューしてるの。それがさ、なんかこの世じゃないところに行くための準備、みたいになってるんだよね。うん、そう、だから、そんな夢なのかもしれないよね。

司会

すごく馬鹿馬鹿しい話なんですよ。私は今までそうやって考えたことはない、いや、常に考えているんです。こうやって縮こまって暗い部屋の中でじーっと自分の考えをいじくっているとですね、あるときピコーンと脳裏に閃いてくることがあるんです。それが一体何か分かりますか? わからないだろうなあ。でもいい、私は分からない前提で、でも分かっているかのように皆さんの前でお話しする専門家みたいなところがありますからね。ズバリそれが何かということをお伝えさせていただくと、それはテレビの画面、なんです。皆さんよくご存知でしょう? でもそれはいわゆるただのテレビの画面ではないんです。そんなの当たり前じゃないですか。一体どうします? 本当に私が言いたいことが、ただのテレビの画面に始終して、それが頭の中の闇にパッと花火みたいに浮かび上がって、ただそれだけで、はいお終い、ということだったら? 随分つまらない話だなとお思いになるんじゃないですか? 安心してください。そんなことはありませんよ。それは、『夜のテレビ』に限るんですから。それも、わかるでしょう、オセロみたいに、白黒に塗り分けられた舞台があって、そこに誰も聞いたことがない、背の高い俳優が立っている、『夜のテレビの中の舞台』に限るんです。それがメソメソとした私の夜の夢想の中に飛び込んでくるんです。ねえ、でもそれが何を意味するのかなんて、どうか聞かないでくださいね。それは(そんなものがいるとしたら)神様だけが知っていることなんですから。(会場 笑)

朝走っている時に感じる、太陽の印象。橋の上まできて、その下を流れている川が気になって立ち止まる。何ということはない川だ。特段の謂れや、際立った景観があるわけではない、近所の川。その川の、手前の方は透明で、中を魚が泳ぎ、石の転がっているのが見える。しかし目を前方へやると、川の反射の具合は変わり、水面は空の色を空よりも濃く映して、どこか幻想的になる。この川面の色が一色ではなく、部分的に影が濃くなったりするのは、どうしてだろう。そこだけ水深が浅いからだろうか? と思う。そう考えているのと同時に、まるでその川が、自分の意識の底からせり上がってきているみたいだ、と感じる。

翻訳

精神で見つめたvisionに導かれた言葉によって語る。そこでは一度辿られた思考でさえ、また新しい道筋で産出され、生まれ変わる。用意した言葉で語るべきでない。それは生起するvisionを歪めるノイズにしかならない。心の裏側で思考する訓練を積むことだ。自分にも厳密に意味が取れない物を見、言葉を聞く必要がある。私自身が一人の翻訳者としてある。一つの英文に対して、訳語の表現を工夫するように書いていく。しかしそこに原文はない。

小説の思考

詩の言葉と小説の言葉はどのように違うか。一言、真実の言葉を言い表しうるのが詩の言葉とすると、小説はどの一文でもそれ単体で何かを言い当てるとは言い難い。何を語ってもどこか語られるべきことの根本とは遠く、かと言って全く外れているわけではない。そのように迂回する道というのか、迷っている間に通過する回路というのか、そうしたものの多層構造から作られてくるのが、散文的な小説の文章の特徴ではないか、と思われる。

そうした意味で、僕自身が語りたいのもやはり小説の言葉だ。あらゆるテーマは浮遊し、投げ出され、as it isの状態にある。それぞれのテーマは厳密にそれが何であるか定義されることはないし、しかし、そうした茫洋とした輪郭を持ちながらも、語られる事柄はそれ単体として決定的な観念なのでもない。それだけでは足りず、例えばいくつかの目的地があって、それぞれを経由してはじめて何らかの意味をなす旅のようなこと。永遠に割り切れず、すっきりとはしないが、それでも絶えず何かを考えている、というようなこと。またそのように永遠に解決しない人間像で自分自身があること、またそうありたいと望んでいること。こうした複数の層が照射する時間断面の中から、何らかのそれ以外では捉え難い真実が描き出される。それは万華鏡のように見る人の視点と時間によって、その像を変化させるものになるだろう。staticなものでありつつ、千変万化する。そうしたものとして、人は世の中を実際に生きているのだということ。

 

これまで自分が書いてきたもの、上手くいかなかったことの根本原因は、書こうとし過ぎ、また書くまいとし過ぎたことにあるのかもしれないと思う。散文とは上記のようなものであるから、全ての文章・思考は、それ自体の試みにおいては失敗している。それそのものとして意味をなすのではなく、投げ出されてあること、思考され続けること、また別の展開へと流れ込み、息づき続けることに意味があり、また生命を与えられるとすれば、そのような予感によってそうなるはずのものだ。間違うこと、歯切れの悪いこと、何も言い得てはいないこと、これを許容しつつ、常に前へと思考を進めていく、ということに重要な点がある。一つ一つの思考はそれでも、真剣なものでなくてはならない。その思考にどこか斜なところがあり、有限なつまらない知性の中でも突き詰めるところを持とうとしないのであれば、その次の展開というのは生じ得ないだろう。これは喩えていうなら、ドストエフスキーの小説においては、あらゆる人物が万感の共感を込めて書かれている、ということに近い。人物同士の思考がどのように隔たり、相矛盾し合うものだったとしても、その語るところを聞く間には、やはりその人の思考の世界に大なり小なり心を持っていかれてしまう。そうでなければ、もし仮に一人の人物にしか人物を認めないのであれば、小説の経験としては成立しない。一方、一人の語りの中にいる時には、一人の有限性の中にいると言わざるを得ない。ある人物から出、異なる人物のところに行く。ある場所を離れ、また違う場所へ行く。そこではそこで生じる出来事、生まれてくる新たな観念がある。それはまた過去の道すじとは独立したもので、必ずしも何らかの因果に縛られたものではない。しかし、こうした道程には非常に強力な意味があり、それ自体のあり様を別にしては語り得ないものだ。思考もまた、そんなものとしてあり得るのではないか、ということ。だから、時に、ある店に偶々入って、それからそのことをすっかり忘れているというように、ある種いい加減であることも許さなくてはならないと思う。その瞬間のことを、また別の仕方で、別の場所で考えとして展開させ続けていくのであれば。