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ハイになったりローになったり

2017.3.6の日記

 家へ帰ってきた。ローさは軽減された。でも、何かに集中できない気分は残る。これは何だろうな。妙にそわそわして、やれることと言えば、ぶらぶら歩いたり、テレビを見たり、ネットがくだらない記事を見たりすることだけ。あと食べること。こういうのって、結構続く。

 思えばこういう感覚って中学生くらいの頃からあって、なんかパソコンの前でオフスプリングとか聞いてたな、って思い出したりした。あの頃の方がより怠惰に呑まれていた。人間性がおかしくなってくる。最悪だった時は、親父に無理やり簿記を受けさせられて、なんだか立ち直ったのだった。意外と、その後の高校受験とかも、精神安定のためにやっていたかも。一人でじいさんちの2階に行って、じっと勉強に集中していると、なんか爽快だった。

 今でも何かに集中できることは、それが何であれ価値があると感じるし、逆に注意が散漫になる時間は、放っておくとかなり悪い方向に自分を持って行ってしまう。 目標意識で何かを達成するタイプじゃない。なんか最近同じことばかり書いてる気がするけど、これは大事な事実であり、自己発見。正直すべての行動は等価である、と言ってもいい。それが熱中した感じをもたらすなら。意識の集中した感じの奥に、何かぐらっと揺れる暗いものがあって、そこで今まで思いもしなかったような、でも一度それが生まれると、もうそれを前提にしなければ何も考えられないような、何かが生まれる。そういう想像力はエロチックだ。
 本当はそういうことをずっとやっていたい。多分、アウトプットの質にそれほどこだわる必要はないのだ。例えば踊りってことで言ったら、俺が熱中した状態で踊ってる踊りというのは、多分めちゃめちゃ滑稽な見た目になっていて、全然人に見せるような何かにならないだろうけど、でもやっぱり熱中は熱中で、すごいものはすごいのだ。バカ、アホ、でいいわけだ。それが生きざまで、表現ってものじゃないか?

2016.9.8

朝に電車へ乗って遠くへ行くときにもあの苦しいような気持ちを感じる。これは重苦しくて、でも快楽もあるような気持ち。長い時間を通じて死につながっている今のことを思う。完全にひとりきり。篭りきりのこだわり。何かを思い出そうとしているが記憶が確かな像を作り出さない。ただ過去に向かっている気分だけが先行しているというような。でもそれはだからこそ確かな内面だ。風景が、何かを、思い出させることをしない、でも、私は、光の下にいる。

そして何か伝えたいと思うのだけど、何も言うことはなくて、私たちは通り一遍の会話をするけれども、きっと分かっているとも、また分からないのかもしれないとも思って、夢中でいる。

 

大人の男がみせるかわいさが好きだ。もちろんものとしては全然かわいいわけじゃないのかもしれないけど、彼のあの常に甘やかされることを求めてるような、でも全然素直ではなくてむしろびしっと決めた感じでいて、実際にしっかりやっているのだけどでも全部はにじみ出ていて、それを苦手だという女性も確かにいるし敵も少なくはないのだけれど、それが彼の孤独だから壁の前でマイクを持って歌っているその人はその人の魅力で輝いていて、隣から何か言われると首を少し縮めてくすぐったそうな仕草で笑い、そうやってからかわれることが本気には悔しいから後で何か思ったことを言うかもしれないけれど、少なくとも今みている僕はくすぐったい気がして笑ってしまう。

 

彼は誘いをかけるとどこまでもついてきて、決して断るということがなかった。どんどんついていくことで、何か危険なことにでも巻き込まれたいと望んでいるかのようだった。彼は僕のことをちょっといかれた危ないやつだと脚色しているところがあると思っていたし、何よりそんな人間らしい口ぶりで話そうとし続けてきたのは僕がやってきたことなのだが、彼が目を細めて何か深層的なものを見極めようと黙っているかのような時に、自分が示してきた態度とともに、ほんの少し演出が過剰になりつつあるその瞬間が疎ましくもなった。もちろんそんなことは起こりはしないのだけれど、それでも危険を望んで深入りすることを彼が望んでいる傾きは場に確かに影響していて、僕たちの話題はドストエフスキーの地下室風になりつつあるが、そんな真剣さも馬鹿馬鹿しくて、投げやりなことばかり言って笑う。夜中の新宿でアフリカの太鼓を叩きまくっているレゲエヘアの男がいて、人は終電のためにどんどん交差点を渡っていて、僕は面白い、必要なことは少しも言えていないと思うけれど、こういうことが心情の吐露と感じたりするのだろうか、向こうだけそう思っていて、ほんとはこっちが口を聞けずにいたと思っていることもしばしば起こるけれど、今回はそういうわけでもなく、信号機がちかちかして、太鼓の変拍子なアップビートを背中に受けて、赤い信号をみながら僕たちは待つ。

 

そんなことのあった次の日にこそものすごく憂鬱になった。たぶんそうしてフラストレーションの所在を感じるからなのだろう。僕はいつになく喋り喋った。そしてその瞬間にはヘンリーミラーのようなかがやきわたる眩しい饒舌だとぼんやり感じているのだ。熱中して話すことは音楽やセックスに確かに似ている、なんて思う、だけどそう思う権利が僕のどこを探してあるのだろう。またそれも馬鹿らしい戯言のように感じてくる、すべて話したことが後から。調子に乗りすぎたのだ。酔ってはめを外してとんでもないことになった次の朝よりも内に入り込む度合いは強い。もうどうしようもなくつらくなる。何もかも切ってしまいたくなるのだが、何週間かするとまた彼に連絡した。

 

俺は傷ついている、だめになっている、怠けている、疲れ切っている、消耗し擦り切れている、痛みを押しつけている、自分の中心に向かって縮んで行っている、俺は思い出している、何も思い出していない、俺は避けている、ふさぎ込んでいる、気楽でいる、責任を逃れている、解放されている、死んでいる、死ぬことを思っている、ばらばらに、めちゃくちゃになっている、時には泣いている、またふざけている、叫び出すことはない、愚痴をこぼす、またこぼさない。どこにも行かない、また常にどこかへ行っている。想像している。遠くの場所、そしていつもここに同じ場所にいる。誰にも伝わらない。しかし伝えられないことは知られる。そして結論の出た話の結論にまた至りつく。全く違う仕方でまた同じ話に。その度に失望し、その度に有頂天になり、熱中して報告する。空がとても青い日は気持ちがいい。その気持ちのよさに十分に入っていけない。それはケガをしてるから、コンタクトをしてるから海で泳げないと言うのと同じように。でもとても嬉しい気持ちでいる、それは本当だ、想像の中で。すっかり満足しきっている、ここに立っているわたしは疲れ切っていて、これからどっさりと自室に倒れて無気力な夜を過ごすみたいなありようでも、確かに。そして物事はどんどん悪くなり、また狂おしいほどよくなっていくだろう。

2016.9.7

 燃えるような気持ち、現実の大きな壁に対する怒りとも言えないような怒り。自分の内側へ向かってぐつぐつと苦しむ痛み。今にも自分を食いつぶしてしまいそうだ。このままじゃ負け犬だ。とりつくろうだけで生きていくなら。もうへつらった笑いを浮かべて生きていたくはない。私たちはそんな感情を持っていたからこそ分かりあい、また傷つけあって、いや、私が君のことを傷つけ続けて、お互いをますますよくしつつ台無しにしてきた。変えなければならない、変えなければならない、変えなければならないと何度も言う。行くあてはない、何度でも内部から内部へ、表層の苛立ちから苛立ちへ。その奥に隠されたものは今まで以上にお互いには分かりにくくなってしまったかもしれない。音を立てて崩れ落ちるこれが最後だという瞬間を何度も耳にした、そしてもうそんな茶番にも飽き飽きしている。でも実際にはそれで何も変わっていない。うまくやり過ごせるようになったことは自分たちが成長したのだということを意味しはしない。また別の仕方で傷つけあうことを覚えただけのことだ。もっと悪い。もっと悪い。でもそこに含みこまれていた時間のことを思うと。

(私たちは海にいる。海の像が今はみえる。狭く切りとられた静かな海のイメージ。二人は白い大きな浮き輪を持っていて、やがてそれを浮かべて海に入る。二人は今よりも若く20そこそこで、今よりも痩せている。彼女はまだ髪がとても長く、私は今と同じ水着を着ている。夏の日が砂を焼く。あの浮き輪につかまって泳いだなら涼しいだろうな。彼はゴーグルを使って水をのぞき込む。水はにごっていて薄い緑色に小さな気泡が無数に浮き上がり消える。)

2016.8.29

8月29日

 

本心ということをそもそも持ち合わせていないとよく言う。だから霊感やイメージに仮託して不足しているものを現そうとしているのだと。

 人間というものの個々を核で結んでいるものが何か分からなくなる。人間はそのつどのものでしかないわけではない。でもまずはそのつどの顔。仕草。言葉。それから傾向があるという以上の何か。この人を知っているということは何か。

 知っているということは一つの信念であって、長い記憶にもとづいている。初めて会う人にも長い記憶によって接している。長い記憶はつまり愛のことであって、悲しさのことである。その記憶は思い出すこともできない記憶もそのうちに含む。自分が持っている記憶のみを人は信じるのではない。それがあると言われている記憶、また他人の記憶、自分のものではないそれを、あると信じることが人を知っているということ、人が一人の人としていることの根になっている。

 

□私は言葉を持てていないのではなくて、早く決めてしまうことが嫌なだけだと、言えるかもしれない。今はそう言ってみたい。あらゆる、ありもしないような可能性のことまで考えていたら、しどろもどろになってしまう。すでに言われたことに乗って話すのなら話は早い。わかるまでわかろうとしなければ奇妙な時間がつづく。

 

 □ 小さい頃の記憶は感情があまりないものが多い。ところどころ、残酷なくらい生々しいものもないではない。それは例えば腹痛の感じだったりする。昼飯を食べたときにくる痛み。それと一緒に光の眩しい校庭を思い浮かべる。それは後悔の感覚。疎外の感覚。なぜかわからないが、大人になって感じるいろいろな苦痛の感覚に増して、そういうものは生々しい。

 ただ眺めているような記憶が多い。時々、全く思い出さなかったようなことを突然思い出す。今書いている瞬間にも、近所の池に亀が甲羅を干していた情景を思い出した。亀はああして水から上がって日向ぼっこをするんだと、同じ時期に教わっていた。

 こうしてただ眺めている感じは、何かを思い出すときに、いつでもそんなように感じる。比較的年をとってからの記憶でもまた、同じようにものを思い出す。学生の頃短い間だけいた演劇のサークルでも、無人の夜の芝居小屋の控え室にパイプ椅子が並んでいるのを思い浮かべたりする。こうして書いていると、ちょっとずつ人の面影が浮かんでくる。私の前に長い足を伸ばして座っている同期の子がいて、その子は隣の同じ同期の子の方を見て口の前に手を当てて笑っている。私が何か変なことを言って、気持ち悪いだとか言って、笑っている。そんなところを思い浮かべる。声は細切れに聞こえるような気がする。具体的な言葉は聞こえない。水がぱしゃぱしゃと跳ね返る音のように細切れに、高い彼女の声だけ何か聞こえる。

 何かを思い出そうとするときに、その人がそこにいると感じるまで思い出すことは誰にしても困難なことなのだろうが、そうできないのは不思議な感じがしないでもない。なぜ前にそこにあったものが、もう一度すっかり戻ってくることがないのか。消えてしまったのにも関わらず、それが実際にあったことだと思っているのはどうしてなのか。思い出そうとするときには、勝手なこともたくさんまつわりついてくるが、そうした余分なものまで含めて懐かしいというか、記憶として眺める感じはある。現実の中にかつての形跡を探そうとしても、限りなくすべてのものは失われていて、ちょっとしたきっかけが残っているにすぎない。アリバイを突き止めたりするときのように、確かに漠然とした記憶と現実の印とが、はっきりと噛み合う瞬間は驚くべきときだ。大抵の物事はそんなふうにはできていない。記憶と記憶とが漠然とぶつかり合っているような感じだ。

 

 人間にとってあるものとは、見ることができたり、触ることができたり、またそうでなくても、感じることができたり、考えることができたり、また信じることができたり、疑念を持つことができたりすることだけで、そうでないものは何もない。そういう膜みたいなものの中に人間はいて、その膜の内側であればいたるところにその人はいるというように感じる。この膜というのはただそういう言葉の上での限界ということを意味しているのではなくて、実際にそんな膜というか、とにかくぐにゃぐにゃと入り組んだものがあって、そんな形を備えたものとして動いている。私たちは夢を見たり、またこれが現実だという現実の中で生きたりするが、そんな膜の中で膜として随時、時間を行ったり来たりするというような感じがある。もちろん現在は現在としてあるのだけれど、この打砕きがたい現在というのが一体何なのかは、全然わからない。

 

 現在ということに強く関わりがあるのは、意志、成功、健康、喜び。また一方で、どん底の抑鬱。記憶ということに関わりがあるのは、現実の喪失。これはいいことでも、悪いことでもない。現在には他人がいる。記憶は一人きりの部屋で、雨の日に過ごすような感じ。

 

 根本的に、現在に関心を持ち得ない、ということがあり得る。現在はあくまで記憶ではなくて、記憶となっていくべく流れていく。記憶をひたすらみつめているということの意味は何なのか。それは記憶によってしか本当に必要なものを得ることはできないと、知らず知らず考えているからだろう。記憶のうちには、記憶が記憶である限りにおいてしかありえない、秘密があって、それを知りたいし、またそれに近づいていたいのだと思う。純粋な孤独があるのは、記憶へ向かっていくときであって、このときは人が一人の人である事実がばらばらになってしまうほど、一人きりになる。もはや一人きりということが意味を持たないくらいに一人きりになる。おそらく究極のところは、そんな人の自我をばらばらにするような、向こうの向こうにある記憶の孤独に、何かを共振させることなのだと思う。人はそれを感じる。どんな人でもそれを感じるし、その共振がない場合には、人は人の人間性を信じることができない。孤独を示すことが、永遠を示すことになる。

 

 記憶は雪のように質量を持って降り積もる

 過ぎ去られる度により重くなり、重大な符丁となって

 取り返しのつかないことを

 極めて謎めいたことを

 初めて意味することを可能にする

 考えることのできない考えに新たに行き着くこと

 それはあまりにも古い。

 ある瞬間には確かに それ を伝えることができること

 その前提条件

 またなぜそんなものがあるのか

 とてつもなく謎めいている

2016.7.2

じいさんの家で過ごしたある夕暮れの時刻。夕暮れとは言ってももうすっかり暗い。母が子どものときから使っていた木の机に同じように古い電気スタンドがあって、それはオレンジ色のスタンドで、暖かい色の光を発した。その明かりはまるでマッチを擦って起こした火のような色で、印象だけではなくて事実温かくて、熱くて、細い短い黒い線の横へ走る木目の上へ落ちるとその辺りを暖かくしたし、ノートの上へ寄せた手の甲に熱を感じてもいた。そのスタンドをつけているといつも朝から風通しのため半分ほど開けてある雨戸に隠れた窓が鏡になって、レースのカーテンをすっかり寄せてしまうと光に浮かび上がる自分と部屋がみえた。その明かりもすでに消してしまっていた。ついさっきまでそれがついていた印象だけが残っていて、でも本当には暗くて、まだ雨戸を閉めていない(夕暮れになるとわたしがいるときはすべての雨戸をわたしが閉めることになっていた、階段を降りてスリッパをつっかけて庭へ出て、飛び石の上をつたいながらガラガラと近所へも響く音を立てて閉める)窓から少し寒く感じるような風が吹き込んでくる。遠くで、もしかしたら近くで、虫の鳴いている声がずっとしていた。もう夜だった。

 

夜中の三時に珍しく目が覚めた。その頃わたしは受験を控えているので物置になっていた玄関のすぐ傍にある三角形の小さな部屋を自分の部屋にして布団を敷いて寝ていた。激しい音が鳴って絶対に寝過ごすことのない目覚まし時計のデジタルの赤い文字盤が時刻を示していた。窓のカーテンを締め忘れていて立ったわたしは生協の広い駐車場をひとりの男が歩いていくのを見る。ぱたん、と車のドアが閉まる音はすでに夢の中で聞いたような気がしていて、男は歩いて駐車場の敷地を出ていく。ゆっくり歩いていく男の姿は小さい。辺りは白い明かりでずっと照らされている。

 五時にまた目が覚めて今度は居間へインスタントコーヒーを淹れにいった。いつものように牛乳を軽く注いで戻ってきた。コーヒーの素が少し黒いダマになって、やがて茶色い膜をただよわせながら溶けていった。廊下で音がしてノブがまわると父がドアを少し開けて、起きてる、とわたしは言う。

2016.7.20

その中古車屋の敷地を囲ってのぼりが出ていた。のぼりは黄色やピンク色でみんなぱたぱたはためいていた。フロントガラスには値段の紙のプレートが出ていた。曇り空の下でも風が強いと、のぼりはぱたぱたはためいていた。赤い車も黒い車もくすんだ空の下ではくすんだ色をしていた。やがて細かい雨が風にまざってくると、旗もぷつぷつと濡れた。ある晴れた日に学校帰りの少年がポケットから小銭を出して車と車の間に挟まれている自販機でジュースを買った。ジュースを帰りに買うようなことはもちろん禁止されていた。もう一人いっしょにいた少年はそもそも自分のお金で勝手にジュースを買うと言ったことさえしたことがなかった。「今こいつのシール集めてんの」と言ってシールだけとって筆箱に貼った残りの缶を、枝分かれした道から一人になって歩いていくとき彼はじっと見ていた。キリンだとか、シマウマだとか、そんな動物のデフォルメされたのが、笑っていたり、無表情でこっちを見ていた。家に持って帰っては怒られるとわかっていたから、道と道を隔てるブロック塀の上にその缶をおいた。缶はぴったり正面がこっちに向いていた。一番表の面には尾ひれを脚にして立つピンク色のクジラがいた。

 何年か経ったあと、ピンク色のクジラが立っているその缶ジュースを、連れられてきた旅行先の自販機で彼は見つけた。あまり流行ったりしたキャラクターではないけれどそのときにもまだ売っていた。彼は一人で、植物園内のその空間はとても空いていた。真夏のテント室の中は温度調整がされていたとはいえ、高いところから眩しく陽ざしが落ちてきて蒸した。彼は木陰の方へ歩いていってベンチに座り、背中のうしろへ両手を広げて頭上を見上げ、眩しい陽ざしに目を細めていた。

2016.7.12

「今日はとても空が晴れてる」

「雨降ってきた。じめじめする」

「ごめん、ついさっきまでうとうとしてたんだ」

「それにしてもあっつい日だな」

「ホームはこっちでいいのかな。あと何分後に次の列車はくるのかな」

 [柱の時刻表を覗き込んで]

43分と書いてあります。20分そこそこです。ああ、こっちは休日だった。38分です」

「お前おもしろいな」

「今のちょっともう一回やってみて」

「もうここのとこに草がなくなったので無理です」

「いやー、こいつはうまい」

「今度おいしいそばの店へ案内するよ」

「昨日変な夢をみたんだ」

「どんな夢です?」

「いや、思い出せない……

「おい、もう15分も過ぎてるぞ」

「いや、ちょっと忘れものを取りに戻っていただけです」

「だけってなんだ。だけって言うのは誰なんだ」

「口が滑ったんです。だけってことじゃなくて、そういう意味なんです」

「そうだよ。すぐ隣りの駅であったんだよ。犯人捕まってないの」

「見たの?」

「見たわけないじゃん。わざわざ駅で降りて見に行くとでも思うんですか。そんな野次馬じゃありません」

「それって一般論で言ってるんですか。それとも僕のことを見て言ってるんですか」

「あんた難しいこと聞くね」

「難しいですか」

「そりゃ一般論だよ。あんたのことほとんど何も知らないもの」

「心外だな。もう3ヶ月もいっしょにいるじゃないですか」

「家が燃えている……

「正直ね、けっこうきついよね」

「話聞こうか?」

「いや……、別にいい」

「帰り8時過ぎるよ。遠いな」

「のんびりしすぎましたね」

「あいつめっちゃショック受けてたぞ」

 

「もう寝た?」

「うとうとしてました。また寝る」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 

「8番線ホームから沖津根津行きの発車です」

「まあ近況報告はこんなところ」

「よくそんな派手な車買うもんだね」

「いや、そんなにもらっても俺も食べきれないから」

 

「だから言ったろ。中華料理屋の中に中華料理屋だって。その中のがうまいんだって」

「すいません、ごちそうさまです」

「またお話ししましょう。ではさようなら」