夜の黒猫

夜の影の中を、殆ど姿の見えない黒猫が横切る。

 

僕はずっとあなたに電話したかったんだよ。ごめんね。自分は弱い人間だから、自分に取って大切なものが何なのか、分からなくなっていたみたいだ。

今からでもまだ間に合うだろうか? 夜風は昔と同じ夜風だ。真っ暗な海に向き合えば、その時と同じ気持ちになる。いや、これはきっと同じ気持ちではないな。

 

地下の、どこか広々した、ドームのような空間で、大勢が騒いでいる、というような感覚。何かが始まるような、また、すでに何かが始まっているような。しかし僕は電車に乗っている。ひと気のない、緑色の座席の空いた車両。この声はどこから聞こえてくるのか? いや、これは声のようだが、声ではない。単なる熱気のようだが、熱気とも違う。激しい喧噪が過ぎ去った後の、人の気配だけが残った広場のようであるとも言える。

 

そこに立ってロングコー卜の男は言う。僕はこの男のことをあまり好きになれない。

「✕✕✕✕」

そうだな、と僕は思う。それは現代を生きる人の恐怖そのものだ。我々はみんなこうした恐怖に駆動されているのだ。一見、こうしたことは楽しい。輝かしい人生の一場面に見える。しかし、これは恐怖の表れだ。なぜ、どういう意味で恐怖だと言うのか?分からない。しかし、こうしたことは、夢の中にまで我々を追いかけてくるだろう。

小島信夫の感想

わかりにくく立体的な文章は、現実の道に喩えられる。ある道を行くときに、その道中に存在する風物は、現実世界に、(それが意味するところは曖昧だが)全的にそこにある。しかし、そこを実際に歩いていく時には、その道は特定の時間に、特定の視座から、特定の気分によって眺められている。つまり、行きにみている道と、帰りにみている道とは、同じ道なのだが、全く違う道でもある。一度目にそこを通るよりも、二度目に通ったときのほうが、その道はよく分かる。しかし、本当は一度目のときの方がよく分かっている場合もある。なぜなら、二度目三度目には僕たちはそれに慣れてしまい、はじめは何が見えていなかったのか、ということも分からなくなるからだ。現実とは一度目には決して全貌が分からないものであり、逆に、二度目三度目には見失われてしまうものである。こういうことが現実的なのだろう。だから、あまりにも説明的にみせてしまう文章には、その点の錯誤がある。それは後からの反省によって、本当は見通しの悪い世界を、俯瞰可能な平面へと置き直してしまう。そのように語れば、現実に接するときの人間の手触りをないものにしてしまうだろう。これは思考についても同様で、しかも比喩としてそうなのではなく、本当にそういうものなのだ。見えてしまっていることの錯誤に気づき、あえて見通しを失うことの訓練を積む。そういう文章修行があるのかも知れない。

雪女

いや、うーん。な、る、ほどな。まあそんなふうに、全体的にしか論じられない人はいますからね…、でも、いや、そうか? 別の角度から考えたら、むしろ分かるかもしれない。それってつまり、例えばこういう山があるとして、そこに何人登って、何人降りてくるか、みたいな話ですよね、小学生のころあった足し算引き算みたいな。いや、僕は数学はあまり得意ではなかったですけど、でも、小学校の算数くらいは…。だから100人山に登ったら、99人は降りてくるわけで、じゃ、残りの1人はどこに行ったんだ?と、多分、この人が論じているのは、こういう余りのことだと思うんですよね。これってでも、そうだな、うーん、僕はちょっとわっからないところがあるような気がするな。何というか、ちょっと、見てる角度が違うんじゃないかと思うし、あまり一般的な関心に沿ってるとは言えないですよね。僕だったら、勝手に凍え死ぬなりなんなりしてもいいと思うし、仮にそこでどんな野蛮なことが行われていたとしても、それって結局作り話の中の話でしょ?って当然なってくると思うし……。いや、そうなんですよ、そこがファンタジーだったら面白いと思うな。そういう、エロティックなファンタジー。だから、そういう雪山で、雪女と遭遇して……みたいな。これは寒い、いや、そう、文字通りで寒い展開だな…。でも古典的でいいじゃないですか。100-99=1。これは1人の人間というものの定義を変えますよね。1人だと思っていたら、その影にいなくなった99人がいるんだから。そして、そこで出会う雪女とのファンタジー。これはぜひドラマティックなものじゃなきゃいけないな。そう、絶対。まあ、でも、そう考えていくと……、なるほど。何だか僕もわかってきたような気がする。

天井を眺めながら

私ね、昔みた映画ですごく印象に残っているのがあって。でも、子供の頃にみたのやつだから、あまり覚えてなくて、それに、旅行先のホテルでみたんだと思うんだけど、だから、タイトルとかもわからないのね。覚えてる記憶も断片的で、なんか夕日に沈んでく街が映るの。たぶん高いビルみたいなところから眺めてるんじゃないかな。うん、日本じゃない。あと、なんか白い色とか赤い色とかが映って……、えっ(笑)、いや、そうだよね、すごくめちゃくちゃな記憶だってわかってるんだけどさ、いや、ね、ねえ、ちょっとやめてよ……、わかる? すごく変な角度から人とかを映しててさ、すごく、こんな風にして歩けるんだな、人って、っていう角度で男の人が歩いてたりしてさ。それでまた赤い色とか青い色とかがあって、それと、ひまわり畑とか……、あ、そうそう、いや、そうかもね、前、一緒にみたもんね、ゴッドファーザー、あ、じゃあ、絶対それじゃん(笑)、で、何話してるかわからないんだけどさ、みんな暗くなりかけたところで、バーベキューしてるの。それがさ、なんかこの世じゃないところに行くための準備、みたいになってるんだよね。うん、そう、だから、そんな夢なのかもしれないよね。

司会

すごく馬鹿馬鹿しい話なんですよ。私は今までそうやって考えたことはない、いや、常に考えているんです。こうやって縮こまって暗い部屋の中でじーっと自分の考えをいじくっているとですね、あるときピコーンと脳裏に閃いてくることがあるんです。それが一体何か分かりますか? わからないだろうなあ。でもいい、私は分からない前提で、でも分かっているかのように皆さんの前でお話しする専門家みたいなところがありますからね。ズバリそれが何かということをお伝えさせていただくと、それはテレビの画面、なんです。皆さんよくご存知でしょう? でもそれはいわゆるただのテレビの画面ではないんです。そんなの当たり前じゃないですか。一体どうします? 本当に私が言いたいことが、ただのテレビの画面に始終して、それが頭の中の闇にパッと花火みたいに浮かび上がって、ただそれだけで、はいお終い、ということだったら? 随分つまらない話だなとお思いになるんじゃないですか? 安心してください。そんなことはありませんよ。それは、『夜のテレビ』に限るんですから。それも、わかるでしょう、オセロみたいに、白黒に塗り分けられた舞台があって、そこに誰も聞いたことがない、背の高い俳優が立っている、『夜のテレビの中の舞台』に限るんです。それがメソメソとした私の夜の夢想の中に飛び込んでくるんです。ねえ、でもそれが何を意味するのかなんて、どうか聞かないでくださいね。それは(そんなものがいるとしたら)神様だけが知っていることなんですから。(会場 笑)

朝走っている時に感じる、太陽の印象。橋の上まできて、その下を流れている川が気になって立ち止まる。何ということはない川だ。特段の謂れや、際立った景観があるわけではない、近所の川。その川の、手前の方は透明で、中を魚が泳ぎ、石の転がっているのが見える。しかし目を前方へやると、川の反射の具合は変わり、水面は空の色を空よりも濃く映して、どこか幻想的になる。この川面の色が一色ではなく、部分的に影が濃くなったりするのは、どうしてだろう。そこだけ水深が浅いからだろうか? と思う。そう考えているのと同時に、まるでその川が、自分の意識の底からせり上がってきているみたいだ、と感じる。

翻訳

精神で見つめたvisionに導かれた言葉によって語る。そこでは一度辿られた思考でさえ、また新しい道筋で産出され、生まれ変わる。用意した言葉で語るべきでない。それは生起するvisionを歪めるノイズにしかならない。心の裏側で思考する訓練を積むことだ。自分にも厳密に意味が取れない物を見、言葉を聞く必要がある。私自身が一人の翻訳者としてある。一つの英文に対して、訳語の表現を工夫するように書いていく。しかしそこに原文はない。